キリストの愛と修理工事
父なる神様
長年の生い立ちと性分の癒着もございましたから
『なんとかしたい』という行動ベクトルは今でも持っております。
(既にその不完全さが愛おしくありますのは)
主の御霊と共に歩ませて頂くことによる恵みでもあるからでございます
実際頑張って得たものは失う事への恐れや焦燥が伴いますれば
ただ、頑張ろうとした時に 結果が伴わなかった時代に 本当にその時に
何も無かったのかを?
頂きました信仰に寄り馳せていては
御声に佇んでいる毎日でもございます。
ですので心中渦中に在りまして一つしか内面作用が働かないことは
私自身を返りみましたときに最後まで食せないお皿の取り残しの様に
明白でございました。
器とは自分が汚れつつも食して頂いております器官でもございますので
残されたお皿を洗うにしましても私の内面は神に委ねており
時にその上には殆どは残っていないのですが
まだ放し切れ惜しくもある油染みた物もパウロさんに倣いましても確認されています
その認識と共に
『なんとかしたい』には なんとかしないことを
主イエスにありまして教えて頂きました
我が寄り所
すなわち我以外に我が生きる所の主は
常に世に居られる間2つ委ねられておられます。
2つの霊を同時に扱われます
ご自分の霊と
兄弟姉妹や全ての方の霊と
主イエスは ご自分で最善を成される事は可能であったのですが
それはなさらずにむしろ信仰者の在り方を
私もそうですが愛に続こうとされる方々へ示してくださいました
もしイエスご自身が信仰によらずご自分で成したのでしたら
行いにより格差落差に永遠に繋がれる事となり
実効支配と致しましても
実際頑張って得たものは失う事への恐れや焦燥が伴いますので
私を含め多くの兄弟姉妹が自分の罪からの救いを得れ無いからだと
教えてくださいます
イエスこそ信仰による行いの方で行いによる信仰の方ではないのです
信仰が先立つにはまず
初めから神を知っていなければ あり得ませんから
神を知っているから歩まれた最初の方ですので
この方は神を知っておられる神でもあるのです
アーメン
こちらは原罪の呪いの本質でも御座いまして
呪いは出来ても出来なくてもその目的は縛る事なのでありますから
ここに記すといたしましても
その常識的 感情的 行動示唆に預かって頂きたくない心情は
呪いは主イエスにございます双方向への祝福とは似てはいますが
真逆の自他双方向に掛かっていてる中傷でもあるからでございます
^^) _旦~~ そこで キリストについていく旅路では
私は私を愛するが故に私を罪に渡さず最も私を知る神に委ねます
『こちらは明け渡し』でございます
私は御人を愛するが故に私より御人を最も知る神に祈り委ねます
『こちらは執り成し』でもございます
ここに善悪の木の実からなる呪いの対抗策がございます
私は未来がみえませんので
過去観から御人を縛る自分に縛られることの無い様に
私ではなく主が理と時に適った
最も美しい最善を尽くしてくださいますと信じます。
^^) _旦~~ そのような訳ですので もはや過去修理の事実以外の是非を
施主様にお伝えする事はございませんが
やってしまいましたら謝罪させてくださいませ♪
『我が霊を御手に委ねます』
聖書
『父よ彼らをお許しください
かれらは何をしているのか
自分ではわからないのです』
聖書
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