進化論の正体(存在と実在)

矛盾する体毛の劣化と蚊の脅威

最も人間を死に至らしめる脅威を持つ生物は『蚊』という事実がございますので進化による体毛の喪失はむしろ退化を意味します。また、もし蚊が居ない清潔を維持できる文明の発展によって体毛が無くなったと仮定した場合には文明の発展速度に比べて体毛が無くなるまでの進化速度が急激過ぎますから何億年経過した後に変化して行ったとの進化論の主張と辻褄が合いません。この様に進化論は論ではありますが事実ではない可能性を含めた考察が浮かんで参ります。(こちらは私の雨漏り修理屋としての性質でもございますので、どうぞ滑らかに読んで頂けますと皆様の整う様が浮かび嬉しく思います。)

エントロピー増大の法則やP53細胞など進化するには余りにも強大な存在が立ちはだかります。皆々様に教えて頂いた知識に感謝しております<(_ _)>

特に進化論とは逆に位置付けされている創造論は政教分離の社会では教えて頂けませんから自分で紐解いていくしかございません。その様な訳でございまして、個人的に進化論とはまるで別の創造論に焦点を当てている人生をさせて頂いております。いつもお付き合いくださいまして誠にありがとうございます。皆様に神様の恵みが満ち溢れますように。

存在と実在につきまして

神はモーセに言われた、『わたしは、あってある者』

口語訳聖書

創造論と進化論を紐解く生業にあたり、こちらの御言葉を考えさせて頂いておりました。実は随分長い間機会を頂きます度に考えさせて頂いておりますが何故『あってある』と父なる神様は2回言われたのだろうかと?さんざんこれかな、あれかなと想像し、その実を繋いでも忘れていきますので私の中で錆びたり忘れたりするものは真理ではないという感覚がありますが全てが一概ではなく悩ましい所でもあります・・。冒頭の蚊と体毛と進化論との関係考察は忘れる事はありませんから、そこでまたひとつ絶体に忘れない考察をお伝えさせて頂けたらと思っております。

『わたしは、あってある者』こちらの御言葉は雨漏りの原因と結果に似ているのですが原因と結果の両者の様に時間的制約や時間的距離を感じないようにしますと原因と結果という表現ではなく御言葉にありますように存在と実在なのではないかな?と捉える事が適います。

その最たる理由なのですが存在は認知出来なくても存在し、実在は認知を伴って実在するという事実があるからです。

ですから先人達が発見されました相対性理論でありましても電気やDNAの発見もおよそ驚愕するような人類文明を前に進める発見の全てはそれらが存在するから発見され実在しているのですから実の所はそれらが発見される前から在ったのであります。この場合、相対性理論も電気もDNAも存在はしていても時間的制約がありますから人の認知(実在)は無視しているという事実です。

ここが雨漏りの原因発見と全く同じであり、存在していなければたとえどんな偉人でも修理のプロでも発見出来ないという事実の事であり、逆にあると信じて探す旅路のなんと楽しいことでしょう。進天新地へのキリスト者の希望でもあり続ける訳でございます。

求めなさい、そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。

マタイによる福音書7章7

こちらの御言葉に御座います様に学歴も実績も収入も価値観も関係ありません。まさに誰でもが人類文明を進めて来ました。存在が実在に変わっていった事実が無数にあるのでございます

ですから発見者の方々も研究好きで大変だったのは私の生業上での想像の域を出ませが、充分承知しておりまして、それによって私の意識は発見させた方。存在させた方の方にずっと向かうのでありました。(どんなに難しくしんどい雨漏り原因でも必ずあると信じて業務に当たらせて頂きました次第です)

神はモーセに言われた、『わたしは、有って有る者』

その様な生業にあり存在と実在は発見される時間軸は違えど『わたしは、有って有る者』の解釈に近い感覚を私は憶えています。

発見と創造は別物

私の人生では時に存在と実在の様に発見と創造を混ぜて捕らえていたのでありますけど、あきらかにそれは別物なのでございますね。また、発見と創造を別物と捉えますと格差社会の一端は創り変わり、本来の世界や人の感性に直されていく感覚を目に覚えます。その聖書的理由としまして発見と創造を分けて考えた場合に偉人であれ義人であれ、誰一人として存在しないからであります。

義人はいない。一人も居ない

ローマ人への手紙3:10

おびただしい数の偶然は偶然でなく必然

これからもあらゆる発見は物理法則を駆使して数式で表現されていく事だと思います。ただおびただしい数式で構成されている物質世界がたまたま意思や意図が関係していない偶然に出来た可能性も否定はしませんが、その偶発性を確率で表現しますと無限大の1くらいの確率でほぼほぼ不可能だと私は考えます。どう考えあぐねても同じ数式化出来る偶然の数。。及び。偶々の種類が多すぎるからでありますね。

また別角度からは発見できないと2次創造が出来ない人間がどうして1次創造を発見が無い状態で出来るのかという疑問が残りますし、何故この数式は進化ではなくエントロピー増大の法則(かたずけないと部屋は散らかっていく法則)へと向かうのでしょう。

こちらを感情を駆使しても数式を駆使しても、その理解と解明は不可能でむしろこの数式を維持させている存在が実在してはじめて感情や数式以外の考え方、つまりこの地は呪われたのでエントロピーの増大法則(かたずけないと部屋は散らかる法則)へと向かうのだと理解への糸口を掴める事となります。

必死に考えるのですがそれ以外に答えがでません。それはまるでどうして2が1より大きいのか?。2が1より小さい理由を探す旅の様でして強いて申し上げますと1が2より大きい理由は1の方が順番で先に読まれるからというとんでもすり替え理論になり論点がズレていくのでありました。この様に認知に戻ろうとする神ではない人の思考が認知なく創造出来る方法を教えて欲しいのですがそれも適う事はありません。あくまでカルト支配から感情を無視して事実だけに焦点を当ててみた場合の考え方でございます。

また、80憶人で麻雀をしたとしますと1人、2人はテンホウ(最初からあがっている役)の方が居られる事が在り得る様に1つ2つならたまたま偶然もありえるのですけど何億通り位あるのでしょう?。まだ発見されていない物理構成式もあるはずなのでそれが成り立っている認知無き存在が偶然なら偶然が意思という事になる程、無数にある数式が整い過ぎていますので偶然は意志をもたないので偶然なのですから今度は偶然ではなくなってしまいます。(言い換えますと実世界はこちら→80億人が同時に麻雀して全員がテンホウなのです)これはもはや偶然であるはずがありません。

進化論は科学ではなく創造に対抗して出来た宗教

そのなかでの偶然の代表者の理論、進化論は数式化出来ないという事実があります。これだけ膨大な数式で成り、また在るが前提の物質世界におきまして進化の結果ではなくて過程は数式化されていないのです。まだ進化の過程は数式では実在していませんのに、実在していると教えている事は宗教と同じで政教分離の国の方針からズレていますがその認知は不思議と薄いのでありますね。(その理由の一つに物理科学という隠れ蓑を着ているからです)

DNAやその他の在る発見と違って進化論は過程の想像ですから数式化出来ない理由の一つに物質が崩壊していく方向性。失われていく方向性のエントロピー増大の法則はあっても加わっていく逆算の数式は無いからでもあります。ですから数式にならない理論を常識化しているのは数式化を嫌う別の存在が関与しているという考えに至ます。『在るを訴える存在。ウソが好きで撒き散らす事が好きな存在の事であり、こちらを聖書では悪魔。サタンと呼ばれております』(こちらの考察は人間だけが心や霊性を持っているのではないという聖書の世界観と一致します。)

そうしますとおのずと進化論も発信者が違うだけの宗教という事になります

そこからですが、あるのに数式化出来ない人間の霊性や心は同じ数式化出来ない在るから生まれているという結論に至ります。その理由は無いはずっと無いをやりますし無いが有るを生む物理法則が無いからです。

物理法則は人間の存在以前から在るのでこちらもその物理法則を存在させた方に尋ねなければ事実は確認できないのでありますね。(ですから訪ねたい人々は聖書を読もうとされています。)

また(65憶年経過かどうかは別としまして)宇宙の真空は65憶年たっても変わらず真空のままと同じ理窟であります。もう少し進化論を難しく複雑にしないで言い換えますとこちらの理論となります。

お財布の中が空でも長い年月をかければ進化して急に命が宿り最終的には一億円に成り喋り出す。

まとめ

雨漏りの原因は人の所作やエントロピー増大の法則でそれらが実在すると雨漏りするになり、それを発見するのが私で直るを実在させているのは私ではなく直るという存在。つまり雨が関与しないという空間法則ですから実はそこには空気という数式が実在しているのでありますね。

在るが在るを創る。これが事実でないと全て辻褄が合わないのでありますが、残っているのは、神に従うという事を隷属とすり替えられている感情論だけでしょうか。激上・激流とよく似ていまして事実ではなく感情を優先した時に私も躓いた事のある(これからも躓かない自信はありません)ニュアンスですが、川は上るとしんどく、流れるとらくちんなのであります。ですから感情で事実の捉え方は変わりますが、事実は感情で絶対に変わりません。もし事実が感情で変わるのなら強い人間だけしか生き残れない世界になります。

それはまるで(進化論の様に)

※(余談)30年程前に話していた人類総背番号制が近く報道されていました。

神はモーセに言われた、『わたしは、あってある者』 こちらの御言葉。存在と実在を兼ね備えた私は絶対に変わらないという約束にその普遍性に私は憩います。なぜなら私は主が仰るように『全て疲れた者、重荷を負っている者』だからでございます。

ありがとうございました!