『死の事実』

小さな工事でも大きく心が揺れる機会を頂く事がございます。そこで『死の事実』をその揺れた手先にて書かせて頂きました。

私は忘れておりましたのに整いましたので施工をお願いしますとの実の余りに、または再訪致しましても二度と再会する事が適わないご信頼の糸だけ残ったままの想い出に、こちらに向き合いましてどこをどう切り崩せば私の身でその思いに御応えすること適いまでしょうかと

むき出しの血肉に荒塩を押し、全てが引き締まる思いが増しておりました。こちらの文面が残されています歩みの中にありまして何かしらのお役に立てますと私的想いも沈められて参ります。繋ぎ止める糸もございます。

拝啓。皆々様にありましては多種多様な良き賜物の実が成る実際と共に私も良い木と良い実を頂きたく存じます。

真理はあなた方を自由にしますとのキリストの言葉によりますと事実こそ人間の霊性を解き放てる真理でもあるからです。それはなお良し悪しを帯びつつも自由は良し悪しすら追ってこれない開放を意味しております。

早速ですが私にとりましての良い木とは?真っ先に浮かびます実際は愛でありまして御人共々無理しないで愛することと、無理なさらずに愛される事となれば手先は伸びるものの触れずに見て居られます。

また見るに留まらず見続けられる理由の一つには私にも無理がないからでしてそれは熱量ならば数で成し個で成さなくてもよい実感が連なる様に感じさせて頂いている次第です。

逆の悪い木の考察へと続きます。皆様方も信を持ち得た事がお在りでしょう。時に信仰者は盲信や狂信等の言われがあっても無くても罵声を頂くこともございますが、それは罵声を発すご本人がひょっとすると欺かれているかもしれない価値観から出ている実の一つと解釈する事が適います。

その様な実際は古今東西問わず私上では一世として立たせて頂いた時から恵の内に確かに御座いました。と、申しましょうか『私のために』と御座います通り。欺く者が在る限りずっとあるものだと存じます。

「わたしのために人々があなたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」(マタイの福音書5:11~12)

皆々様と同じく挫かれつつ御返ししては理解と逆の働きを覚え、またその罵声は返さずに精査していますとやはりその方から出ている実ではなく悪い木から出ている実でもある訳でございます。現実は人が持つ価値感覚が人の価値感覚を裏付け合っているのであって決して信仰が傷つけあっているのではないので御座います。『私の母とは誰でしょうか。』と在ります通りに。

イエスはそう言っている人に答えて、『わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか』と言われた。
(マタイの福音書12:48)

少し具体的な実体験にありましては『おまえ、それでもキリストか?』この様な大まかなお言葉でも私がキリストであるはずがないのですが御人の混ざり合う右目とはそういうものでしてこの様な言葉を頂きましてもなお求め続けた結果、実は傷ついて怒っているのは私の価値観とそれを持つ手であって信仰ではないと気付かされます。

こちらをどなた様でも頂ける信仰により体にて教えて頂いた様を表現致しますと信仰は影を生む 右目だけ、右手だけ、右頬だけで出来ていないからでして総じて良く効く方、よく用いる方が自己という価値感覚で御座いました。

同時に自己はいつでも事故を起こす可能性を秘めているのでございますが他方には教えて頂きつつ形創られて行くキリストの仰るからし種の変容の通りでありますので、これからも主が働かれる兄弟姉妹の内に羽を休ませて頂く機会に恵まれる事となっております。

息をより多く頂きますと羽は小さく折りたためる様になり、成す陰は影そのものでなく日照りを押さえておる様でございます。

ですのでもしも親愛なる肉親、または御家族からこの様な類似の言葉を浴びせられたとしましても、それはその方の価値観であってその方の信仰ではありませんから良い木でもありませんし良い実でもなく 良し悪しとしてだけの事実として捉え切る事が可能となります。

加えまして初めの想いに立ち返りますと事実、価値観の良し悪しで御人が救われる事は無いと信じている前提では確かにそうなのですから。

随分悩み、祈り、俯いてはいたのですけど聖書の恵の内にありましては、必ず『完全で在りなさい』のヒントをたとえ一つづつでも頂けると信じております。それは完璧と完全は価値観と信仰の様に全くその方向性が違うからでございまして、完璧な自分は来なくても完全な世界は必ず来ますし、自己より先に働く信仰は実在しているのでございます。

そして、ひざまずいて大声で叫んだ。『主よ、この罪を彼らに負わせないでください。』
こう言って、彼は眠りについた。使徒の働き7:60

続きまして『よい木よい実』『悪い木悪い実』を明らかとしつつ今回の本題について書かせて頂きたいのです。どうして神は良い方なのに死を人に齎せたのでしょうか?こちらの求題でございます。

いわば『死の事実』の事でございますればキリスト者は信仰と御霊により罪の怖さといいますか染色体の薄まりの様に罪があるので神が解らなくなる怖さを認知しておりますがそれとは別に死は信仰者問わず全ての人に齎されます。

それはまるで『良い方が悪い実を成らせているように』齎されまして、信・未信を問わずして人の目には死の齎しというものが『きっとそのように見えるかもしれませんし』『そこまで見えないかもしれませんし』『死はもっと先だと見ていないかもしれません』

急ぎ見ている訳ではありませんが私の理解が主に及んでいるかどうかは残ります上で死が入って来た時の捉え方は罪が入ったまま永遠に生きる事は神にとっても人にとってもそれは良い実でないと判断されたからだと私は信じています。

具体的に何を意味するのかと申し上げますと罪が入ったままですとただ単に、『長いだけの生になる』可能性が高いからであり『罪の奴隷のまま永遠に生きる』事は、よい実とは到底成り得ないからと判断された故と考察しております。

神である主はこう言われた。『見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。』(創世記3:22)

また、それだけ罪の破壊力によって良い方が解らなくなるということは良い方や良いものを自分だけ、または自分達だけで成そうとするその働きや方向性が永遠に良い実に預かる事が出来ない事を知る為とも捉えられます。

その理由の根本に良い木や良い方はよい実を成そうとする必要努力が最初から要らないからでして無償の愛の流れも必要努力の無い場所からでなければ生まれないからでもありまた必要努力はほんの僅かでもカインの罪の様に必ず影を落とす性質を帯びているからでも御座います。(カインの罪は恵による相互通行ではなく就労による一方通行だからでございます)

その始祖たるほんのわずかな影を落とされる聖書箇所にて蛇はかつて人類の祖にこう言いました。

すると、蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません。それを食べるとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。』 創世記3:3

こちらは現在も使われています。とんでもない。全くの嘘となります。死は我々人間側の判断基準の内や操作出来る事象ではないという事実を隠しながらさらに麗しそうな毒で蓋をしているのです。もし本当に死なないのなら人間が創らずに最初から死を左右出来る認知を持っていなければならないはずでした。

ですからこの時のアダムとエバの心には自分達が知らない死の本質と(事実でないものを)信じる心(罪)が初めて入って来たという事になります。人間は肉体的でも霊的にでも心でも自分で死を扱えないのが事実ですから体は老いますし、心は死ぬような傷つき方になっているので御座います。決して『あなたがたは決して死にません』ではないのです。

ですから事実とはそういう事ですので老いたとて、傷ついたとて、恥じる事もなければ、返さなくて返してもどちらにしても心は死に傷を負いますので、こちらも無理に『あなたがたは決して死にません』を履行しなくて良いと存じます。

私事ではありますが、私はキリスト者ですので神が死ぬというのですから体でも心でも今は『死ぬ』で良いのであり。

『死ぬ』事実を無視して『あなたがたは決して死にません』を履行しますと誰か何かを殺してしまう事だってあり得るのですから『あなたがたは決して死にません』と促した悪魔は最初から人殺しという事に相成ります。

悪魔は初めから人殺しであり真理に立っていません彼の内に真理がないからです悪魔は偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父であるからです

ヨハネの福音書 8:44

『あなたがたは決して死にません』この嘘が今でも引き金となり事実を信じれずに自分を信じている状態が現在でも続いていますので、こうすれば、ああすればと自分に基づく沢山の教えがありますけれども、こうすればという行動示唆の基。こうすればのこうの元に居れてはじめてこうすればがこうすればなくこうする事に成るという信仰を持つという選択肢も御座います。

ちょうどこうが7つ並びましたのでもう少しお前は何を言いたいのだ?こちらを解り易くお伝えさせてください。

赤になるには光の元にいないと赤を認知出来ないのと同じでして光無く赤になる事は不可能という事実は心の世界にも実在しております。この場合の光はキリスト者の場合は、みなさんが頂いている聖霊の事でもあり、赤だけ単独で実在する事は事実ではないんですが赤単独で成せるという嘘が私の中にも存在し続けてきました。『死がある事と』『死ぬ事』が別で在る事と同じ様に、赤がある事と赤に成る事は全くの別物なので御座います。ですので罪が無ければ死は必要なく、光が無ければ赤は認知出来ません。

そのようにあり、人は死の鎖を肉体にも霊的にも頂いたのでありますが死には時間的制約も御座いますので良い木、良い方を創らずに戻ろうとする意志が芽生えこの意志こそ良い実であるという死の捉え方も御座います。

また罪が入ったまま永遠に生きたとしましても、よい木よい実をずっと創ろうとする就労がカインの様に実在していまして言い換えますと私には根源的にお別れを想いますと実は今もそうなのですが(痛みの上にある場合、つくるのも、みるのも重荷である時があるのでございます)ですから神は人間にサタンからの罪が入った時の為に人間を想って死を用いられたのだと考えているのであります。

それによって死単体ではよい実ではありませんが否定対象の一面だけではなく、人が神様に戻ろうする補助としては充分な良い実でもある側面もあるからで死が遠ければ命を想う頻度が罪により極端に下がっていくので一度水で滅び、命は霊を宿している灯の様な美しい側面も際立たせてくださいました。

そして死はキリストの死と復活によってついにその物理法則を破られたのですが、何故こちらが事実なのかと申し上げますと、死は死を知っていて齎せる方でしか破れない鎖であるからです。死を齎せた方が死を破る事が出来るのが事実でなければそれ以外はアダムとエバの様に最初から死を知らないので死に飲まれている歴史的事実があるからです。ですので死を知って生まれてくる人間は1人もいませんので人間が死を破れる事こそがおとぎ話で神話であり死を齎せた方が死を破る話が辻褄が合う事実という事になるのでございます。

『あなたがたは決して死にません』
そうではないです。。。こっちじゃありません。
『あなたがたは死ぬ』だが『生かされます』こちらでございます。

死に対してまでご自分の主体的意志は必要ありませんので受け入れ難い狭い門の様でございますがこちらです。

無論サタンであれ何であれ誰であれ被造物で死を敗れる事実はありませんので死を用いてでも罪を砕きご自分の元に還って来てほしいと願い、またご自分も死に渡された方のみが死を破れ得る能力と実際を備える事が出来るのが『死の事実』であります。

またその吟味対象は世には無く、三位一体の神以外に死を齎したと言われる存在は今から創るしかなく、もし創ればその様な宗教は即日カルト認定され誤解され総攻撃対象に成り得るでしょう。ですから私が、私共が、死を齎したとは今から絶対に言えませんしそんな事を言えばそもそも有名も冨もなくこの世では立ち行きませんから『あなたがたは決して死にません』サタンの様にこちらを用いた方がさらに易くなるという現実がございます。

そこを踏まえた余談ではございますが、もしカルトに興味が出た場合でしたら、豪邸に住まずに文化住宅に住んで成す方の手段もおそらく出るかもしれません。この露出の激しい時代に今からでは何を増やすにしても時間がおそらく足りて来ないからなのだと推測しております。寄ってきます波が昔よりも遥かに大きく感じているからでもあります。

こちらが頂きました信仰に基く『死の事実』考察でございますがこのように完璧でない私的考察上でありましても私が考える神と神が意図した私には少なからず開きがありまして罪とは能力及び修行不足等、その様な在来認知に基づいているのではなく『常に的が外されている』『常に外され続けられている』まさに敵の戦術そのものですから単独で戦える相手ではないので御座います。

ですが攻勢に出るにあたり、私的な譬え話ですが私の娘をカルト集団から取り戻す最終手段を思考致しますと、私がそのカルト集団に殺される必要がある事と似ているのでありました。この場合私にはカルト集団の良し悪しが問題なのではなく、娘を取り戻す事が良い実と成り得る訳でございまして、良し悪しで娘が救われないのはここにありましても周知の事実という事になります。私の良し悪しでなく私の命が娘を取り戻すからでございます。

まして罪に奪われた何億もの人間を取り戻そうとする神の忍耐と深さは未だ到底量り知れません。私にとりましてこの御計画は深海の様に美しく怖さもまた怖がる程に理解が及ばない時も御座いますからこちらは1キリスト者としての『死の事実』死と神様の関係考察記事ですのでさらなる事実解釈は召命を受けられた伝道者の方や牧者の方から出る実に引き続きまして預かりたいと願っております。

一度死ぬ事で『あなたがたは決して死にません』に勝てる事もあるのでございます。(実際に自分の肉体を殺すとかではないです)

良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。(マタイの福音書7:17~18)

長々と最後までお時間を頂きましてありがとうございました。寒くなって参りましたのでどうぞお体ご自愛ください。また、変わらぬご信頼に心から感謝申し上げます。