『情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである』

テーブルに御言葉を置く懐かしのバイブルキャンプ寸劇でサウロ(パウロ)の役をさせて頂きました。この時代1999年の修理業務はタウンページ広告を使わせて頂いておりましたのでボールペンはタウンページさんからの粗品となります (^^♪

『情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである』

マタイの福音書5:28

本日もお疲れ様です。御人によりますれば情欲は多岐に渡り大変な長患いを覚えますこちらの言葉をテーブルに置きまして共にさせていただきたく存じます。

現在は個に対しての霊的戦いは全で考えさせて頂いております。といいますのも『完全で在りなさい』との御言葉のすすめによりまして、全は個に勝るので心はそのように流れると実践させて頂いているからでもございます。霊的個に霊的個ではサタンの方が勝り私の場合は負け続けました。

正直申し上げてクリスチャンと自分で思えない時期が長かったのは聖書を読んで学んだつもりでも実戦で歯が立たなかったからに他なりません。(自力を過信して臨んだに他ならないのです)

ですから↑の記事の中でもありますがキリストに癒してくださった盲目や足なえや長血患いの方々と私は同じで在り続け、生きた時代こそ違いますが何も変わりませんとこちらを書いている今理解するに至ります。

記事の中にございます20年の?(何故その期間だったのか?)はそうだったんだと思います。主の栄光を見る迄の期間は私には必要だったのでございますね。

ですので御霊の助けがどれ程の贈り物なのか・・。計り知れず・・。現在は負け続けが一変していますのでどうあっても聖霊から離れたくないという祈りの毎日で御座います。

まだ断続的なのではございますが平安と喜びが実際に心内に広がっており点滅はしますが決して消えません。まるでその断続性は3度頂いている霊的食事のようでして

譬えるなら、とても美味しいアップルパイを頂きますと口の中はリンゴの蜜で甘さが広がっていると同時に鼻はよく焼けた小麦粉によって香ばしさが広がり増すような。。。

この様な二重構造の心内でございますので私は私として認識すると同時に廻りを包む様に主の御霊がおられ私の助け手そのもので在ってくださいます。(クリスチャン全員そうだと思います)

ですから『情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである』こちらの御言葉にあたり、私には未だ情欲はございますが、そちらより女性が目に入るときは『主の御霊が共にしてくださいますように』と願う方が今は先立ちます。

そちらの願いが情欲に勝るからでして断然そちらのほうが情欲より私は満たされる事を憶えていますから、私の命の水はそちらに流れていきます。下に居て苦しんでいる私の場所へと自然に流れて来てくださいます。

その様な訳でございまして悪魔の誘惑を退けるには何にでも順番や広がりが個々に添う様に
ちゃんと備えられているのだなぁと実感させて頂いております。

試練と共に脱出の道を備えてくださる
先ず神の国と義を求めなさい
人はパンだけで生きるのでなく神の口からでる
一つ一つの言葉によって生きる
もらったものでないものはわたしには何一つありません

聖書

こちらの御言葉を頻繁に心の中に用いております理由に私は自力では負けると解っていますから自力での戦いはしていないからであります。(とっくにそれは止めました)ですが主の御霊と共に戦って平安と喜びを保ち、これからもここにあるうちは御霊と共に全うさせて頂きたいです。

読んでくださってありがとうございました。
( ^^) _旦~~(テーブルにあがりましたでしょうか)

テーブルでなくてもテクテク歩いている時にでも
私の情欲ではなくキリストが共にしてくださいますように