神様とスパーリングするクリスマスと感謝

今年もクリスマスが近づいています。

まるで一滴づつですがろ過を終えた日々が
小さくも大きくもある器に溜まって行くように
飲んでよし、注いでよしを 奏でるようなクリスマス


クリスマスにて

娘から手紙を頂いた事がございます。
そこには娘の想いが私に向けられておりましたので
主にありて娘の想いに私の想いは向かうのでありました。

いつその扉を開けたのか
買い物するときは一緒に何を買われたのか
どんな表情を浮かべて色鉛筆を走らせていたのかまで

感謝をむりやり分解しますと
寸っとでも身に言う心がなるように
私の内面では感謝は動詞でもあり同士でも御座います。

感謝を綴る娘からの手紙の様に
聖書は神様からの愛を綴った手紙だと言われています。
主にありて神の想いに私の想いは向かうのでありました。

味を備え、景色を備え、冷熱、隣人や引き合う男女
を備えられた神を想う時に
神はいつ
その扉を開けたのか
買い物をするときに一緒に何故罪まで買われたのか
どんな表情を浮かべて色々な縁を走らせているのかまで

感じたいのです。
娘からの手紙も神様からの手紙も

私への想いが強すぎるので
自分にとっていい事ばかり書いている訳ではありませんが
想ってくれている事は普遍であります。
それは急に無くなったりしたことがないのですから

明日も味はしますし、景色は輝き、
美しい人、想ってくれる人は備わっていくと思います。
寸っとでも身に言う心がなるように

感謝のありかただけではないのですけど

偶然が前提の場合初めから意志を創らねばならず
感謝という動詞は行動示唆やお説教やコントロールの表現も出来ます。

また

必然が前提の場合は初めから意志が伴いますので
感謝と一緒に居るだけが条件となっているのでありました。


※追記※
自分にとっていい事ばかり書いている訳ではありません
この部分ですが
旧約聖書のヨブ記38章をお勧めさせて頂こうと思います。


高慢や傲慢に勝ちたい人や負けて悔しい想いを引きずっている御人にも最適でございます。神様とスパーリング出来ます♪

ありがとうございました~。