二つの時間の贈り物

前書き

今回の記事はクリスマス時期ですから二つの時間の贈り物の考え方を私の実体験に基づきまして書かせて頂こうと思いました。私が一番初めに聖書を読み始めた時はいつだったのでしょう、その時にさっそく心に焼き付いてきた言葉がありまして

それが

いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。コリント人への手紙第一 4:7

聖書

こちらの御言葉でした。

私の生い立ちは幼い頃から仲違いの仲裁の役目を担う機会が頻繁に御座いまして、何も無いのでその度に、泣いているか、もしくは言葉で問題を納めようとしているか、悪霊の介入にあってはその様な幼少時代でもございました。成長と共に言葉の力を無意識に信じていたのかもしれませんし、涙の方は控え目になって来ましても、何もありませんから言葉しか納めようが無かったのだとおもいます。

その口が諸刃で働いておりましたから孤立している時にでもハブられている時にでも痛みはしますがイジメられる事はありませんでした。いや、イジメという概念は無かったという世界観がその時代では正確となります。当時の私の小競り合いは常に一対一で今でも変わりありませんが一対他でも対応できるだけの訓練はさせて頂いて参りました。対応するだけでございますが。

その様な性格でしたので事態解決への道筋を考える癖が常についておりまして、若い頃から外交営業もそれなりにこなせていましたから驕りは当然持っておりました。そんな私を神様は見かねてでしょうか?こちらの御言葉と出会う事となるのでした♪

いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。コリント人への手紙第一 4:7

聖書

良いものでも悪いものでもそうですけど、何故あなたは貰ったものを誇るのかと?普通に生活していて一体どれ程の日本人の方がこの投げかけを受ける事ができるのでしょう。ましてネットが無い時代にありましてです。

何故の部分の回答ですが当時は背伸びして伸びた踵に枷が嵌りもう降ろせない程に随分と背伸びしたままでしたから、若くても対等に世と渡り合うには突っ張るのではなくて驕るしかなかったからであります。この様に振り返りますと、『何故、あなた、誇る、』迄の答えは即答できるのですけど、自分が生んだという感覚は持っていましても貰ったものという概念は一切無かったのでありますね。

しかし今の私には恵にあって頂けられている、または頂いている人生であると、信仰によりこの世界をその様に見ていますから、この御言葉は暗い内面である時でも星の瞬きの様に止まらず動き、オリオンの一角を成すような働きを頂いているのであります。

ですから自分の歩みをどこから振り返って分析してみましても戒められているという感覚と共に、与えられて生かされて来たという確信の方が強い訳なのです。それで『人生は貰ったもの』という前提で奢りも誇りも否定も肯定もおいて置き、本題の『二つの時間の贈り物』のご説明をさせて頂きたいと思います。


『二つの時間の贈り物』

時間も土台と家の様に2つに分かれておりまして、家を建てる時の土台は深さや硬さや重さなどございますがその中で時間は深さの役割なのでしょうか。最早、品々は溢れ『時間を買う』行為が一番の幸せと語る方もおられます。また、『自分の好きに使える時間』こそ幸せなのだと語る方もおられます。その考え方に納得して頷いている上ですけど、その時間は私にとっては土台の上の建屋の部分を指しているので御座います。

実際土台となる幸せは御言葉通りに建てる幸せの方でなく貰う幸せの方だと私は確信していますので、貰う時間はまずどんな人でも貰っている事実が平行に実在しております。その上で私的に用いている時間の方は自分が生んでいて貰っていませんから、心のうちに霊的に働いて貰っている時間の方が土台となっている訳であります。

そうしますと

欲的に用いている時間の方を土台とはせずに頂いている時間を土台とした場合に『時間を何に使うか』と『時間を何で買うか』とこの両者をより有効化できます理由には貰った時間なら誇らなくていいですし、卑屈になりたくても成りようがないからでもあります。

聖書にございます岩の上に家を建てるたとえ話に御座います通りです。(※この考え方の働きは私ではなくて聖霊によるもので聖霊は御言葉の解き明かしもしてくださるからでありますし聖化の土台にもなって下さっております。)

ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえる事ができます。 マタイの福音書7:24

聖書

実例としましては、BBQをするための森や川辺で何を焼くか?それに加えてその場所に居る事への感じ方や洗濯していても、アルバイトをしていても、何万人を沸かすスタジアムで活躍していても、奉仕をしていても、労働をしていても、満たされ方は同じ。土台ですから同じ満たされ方を貰っている時間は約束されているので御座います。また、自分で生んでいませんから常にあるので御座います。時間を生んでいる感覚の前に時間を貰っているという満たしが先立ちますと個人差はありましても勝手に人は幸せや安心感を感じる様に創られていると私は確信しています。勝手にそうなるが一番私も嬉しいのです。

家庭内生活でありましても生んでばかりの時間では幸福の顛末が整い難くなる例もございます。子供がTVを見ている時に買い物を頼むと直ぐに買い物に行ける子供は生んでいる時間ではなく頂いている時間を使っているのであり。(全てではないにしても心掛けでなく心持ちが変わっておられたり)尚更貰っていると感じていない子には心掛けと共に心持ちが大切と私としてもその様に働ける訳でしてその時にはどんな時でありましても決して権威も権利も何もかも必要ないのでありました。(こちらに関しましてはたくさん失敗もしましたから原因の究明も致していたのです。)

ただ、どうしても現代もこれからも大患難時代であったとしましても、時間によって『どう生きた』かは個人差が出ますし『何を成したか』も個人差がでます。悪魔もまたこちらに目をむけさせようと働きます。どうしてもそこは目に入りますし目に見切られます。最早今に始まった事でもなんでもなく聖書に記されている通り、誘惑や茨の覆いが多数存在している事も事実で御座います。

しかしながら時間を貰ったという土台の人生観は贈ってくれた方への想いが見切れる事がありませんので幸福感も強弱はありましても切れる事がなく継続して成長して頂けます。(こちらも私の考えではなくて)その時間の贈り主が聖書では神であり子であり聖霊だと伝えておられる訳ですから自己が生んでいる時間の方ではないのであります。

私自信もこれから時間をもっと上手に使えるかどうかわからないのですけど、といいますか、時間の上に乗っていて移動している感覚の確立ですね。乗ってはいても手が伸びている時も振り返ればありますでしょうし、その手を払われる時もまたありますでしょう。しかし、時間は贈り物だという人生の土台や信仰に立つのでしたらその上に何をトッピングしても誇らないで最期まで全うさせて頂ける人生が約束されていると信じております。


(自身を含めました兄弟姉妹の家庭伝道がどうぞ疲れずに祝福されます様に)

なのでこのホームページも無料で見積もりに馳せ参じます場合でも土台の方の時間を私は用いて参りますので時間を奪ったとか、申し訳ないとか思う御人も、思わない御人も思わないでくださいませ♪

いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。コリント人への手紙第一 4:7

聖書

私が何を成すかを活かす為にも何を貰ったのかはもっと大切だと存じます。真の贈り主こそ永遠に讃えられる神です。どうぞ時間の創り主である神様からの贈り物がどなた様の心と魂にも届きます様に。また贈り主は時間はどれだけ贈ってもキリストが開いた道により無くなる事はないと約束されておられますから。

メリークリスマス♪


※私も毎日、毎日、霊的戦いにおきましては、たとえ原罪に首まで巻かれておりましても今度こそ必ず守るとしております♪励ましを頂ける詩でございますね。