二次救済論

虹救済論

クリスチャンにとって身内の他界は見送れる場合と俯いて後悔する場合も御座います。福音を受け入れて欲しいと願うも叶わなかった場合でございます。

また、福音が伝わる前の先祖はどうなるのか?信じなければ救われないなら先祖の霊故に信じない。それが不透明なので福音を信じないという方もおられます。

私はどちらも共感出来るんです。

その理由は家庭内伝道はマダマダ途上ですし、といいますかもう出来ない身内もいますし
先祖云々も相当考え尽くしたのですが私は二次救済論を持とうとはしません。(福音の前に死んだ方にもキリストが福音を伝えるという論の事)

こちらは一歩だけずらした考え方を頂きましたからなのですが、御自分の一人子をお与えになる程の愛をお持ちの神がはたして私の想いの方が深く神の愛の方が浅いのかどうかの疑問は捨ててはいけないと思っています。信仰者とそうでない方の視方は違うので

右手のしている事を左手に知らせないようにと聖書には書かれていますから、右手の事は知らないとしましても、私が左手から物事をとらえていないかという疑問の事でもあります。神様は自分の想い出の中にある先祖や伝道出来なかったかもしれない方に手を抜いていたのでしょうか?

たとえ私がそうであっても神様はそうではないと信じています。(私は罪人ですから信じるより否定するほうが簡単でしたので)膨大な時間、亡くした方と神様はその人に最善の交わりを持っておられて(信仰者としてなら、交わりを持って無いと考える方が傲慢なんですね。理由は同上)

たとえ自分の目には全力と映っていなかったとしても、亡くなった方も神様も全力だったのではないのかな?と、そう思う様にしております。(良し悪しでなく それが全てだったんですねという風に)

きっと幾度となく、捨てられたり諦められたり笑われたりされたのでしょう。だけど聖書の神様だけはどんなことがあっても全力でどんな方にもどんな時代でも添われている。そのように、静かにお祈りしている時に自分の至らなかった穴やヒビが埋まっていく感覚を頂けております。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28〜30)

いつもありがとうございます♪