『死にたいする勝利の贈り物』

いつもありがとうございます。今回の記事では『死にたいする勝利の贈り物』と題しまして神様(創造主がいる)理論について書かせて頂こうと思います。使用する言葉はどなた様にでも利用可能な存在→実在→認知を使わせて頂こうと思います。どうぞよろしくお願い致します。

はじめに知って頂きたい聖書のことばはこちらとなります。

「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1:20)

新約聖書

聖書では今、目にしている物事からはっきりと目に見えない神の本姓と神性を認める事が出来ると書いていますので今回は人の歴史や事実認知の成り立ちから恵の内に神様を見出してみようと思いました。

スマホが生まれる前にスマホが世の中に在ると認知できる人は居ませんでした。また、電気が生まれる前に電気の話をしてもたとえ電気が存在しても実在していませんから線も話も通じません。また、原子力の話をしても原子力が存在しても実在と機能がなければ人は認知できないのでありました。

そのように歴史を遡っていきますと存在→実在→認知という流れですから必ず存在が先立つ訳でございます。存在しないものは実在させれませんし実在しませんと認知出来ないという事実が御座います。聖書に書いてある言葉の通りでございますね。

こちらに順じますと空想や偶像は実在後に起こる二次創造ということですから元々は存在ではありません。宇宙が存在し発見され実在認知したので宇宙人を空想したり、恐竜が存在し発見され実在認知されたので怪獣を空想したりという流れに必ずなっています。これら2つが合わさりますと誰もが知る空想特撮シリーズ活劇となっており胸が躍ります♪

空想も偶像も絶対的に基になる存在と実在があってこそ可能な訳でありますから神様が空想である。または偶像である。と判断したとしましても、歴史的な順番としましては空想特撮シリーズ活劇と同じように神様が存在して実在した履歴がなければ人間は認知出来ませんから空想も偶像も出来ない事となります。(お勧めはできませんけど。。この場合何を神としても自由でございます)

そうしますと目に見えない神の存在を人間が実在認知する方法は神がご自分を直接人に告げるしかありません。その理由は後述させて頂きますが人に告げた事実が無ければ現在でありましても神概念は空想や偶像としても実在出来ませんし神が存在して実在し人にご自分を告げていなければ神概念が無い世界になっているという事でして神という言葉自体が無い世界になっていなければならないからであります。

では、目に見えない神は何時誰に告げたのでしょうか?この場合、告げるには告げる対象が
言語が解る存在でなければなりません。もしも言語が進化で生まれたとしましても神概念が実在する事が出来る条件は言語以外の告げ方では神概念ではなくただの現象としてでしか人は認知出来ないからです。前述のスマホの過去も電気の過去も原子力の過去もそうでありました通りに目に見えない存在を存在はしていても人は実在するまで認知出来ないからでありますね。

また認知出来ない物は二次創造も出来ませんから美しい自然は美しい自然現象のまま神としてではなく在り続けますし、太陽神でも海洋神でも神々と言われます全ては神が実在と認知の歴史が先にない状態のまま神として偶像化する事も空想する事も出来ない訳であります。

ですので元々人が言語を理解出来て告げる事も出来た履歴がありませんと神概念自体が実在しないのですから『神が人にご自分を告げた事実』を表明している実在言語はどれなのだろう?と探しますとその条件を明確にしているのは聖書だけとなっていますので私は聖書の神様が論理的にでも空想でも偶像でもない神様だと理解しているので御座います。冒頭の聖書のことばにあります『はっきりとみとめられる』のでありました。

神が人に告げたか告げていなかは事実認知の成り立ちを考察する上でも神概念が既に実在している現実世界の上でもとてもとても重要なポイントになるのであります。

まとめます
神の大前提は存在していて神の方から先に人間に在ると告げた方でなければ成り立ちません。こちらが現在でありましても神の存在が実在して認知され二次創造や偶像になる事が出来る唯一の条件だからです。

そうしますと悪魔が引き起こしているあらゆる偶像や二次創造はかえって本物の神様を知らせてくれる働きにもなっており『死にたいする勝利の贈り物』でもございます。

だからといって感謝はしませんが


今日はクリスマスですね♪ 全ての人への贈り物として聖書ではこう告げられています。

きょうダビデの町で、あなた方のために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカの福音書2:11)

新約聖書

ご自分を人に告げられた神が今度は御使いを用いて救い主が贈られた事を告げられました。


さて、病や死に至らしめる原罪のある僕が何故神である聖霊により頼むのかと申しますと聖霊は神様やキリストと同じで原罪が無いからでして、とても聖い聖さの中に無条件で預かれるからであります。これこそ『死にたいする勝利の贈り物』だからで御座います。

条件があるのならそれは原罪の中にあるという事ですから原罪の中にあるものは原罪から救う事は出来ませんでした。

委ねる、委ねないの選択におきましても委ねる対象が原罪があるか無いかは『告げた』と同様にとても重要な選択基準なので御座います。また聖霊は誰にでも聖書の神様を望む方には贈られますので依怙贔屓も格差もありません。

メリークリスマス♪

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28〜30)

聖書