預言と占いの見分け方

『我が子』

心の穴をお前で塞ぐ
お前の心で塞いで吹いた

何時も同じ出だしで鳴らし
何時も同じ長さで這わす

何本あってもどんな時も
塞ぐ指さえ決めている

聞きたい音を聞きたいから
俺が聞きたい俺の音を
俺はお前で塞いで鳴らす

吹いて、吹いて、拭かずして
鳴らして、鳴らして、慣らされていく

やがて音は鳴らなくなった
やがてお前も慣らなくなった

お前の心に穴が開いて
俺の指にも穴が開いて
お前は穴から逃げ出したから

右手で必死に穴を押さえ
左を振り切り必死で逃げた

もうその穴は
開いた指では埋まらない
もうその穴は
指差ししても埋まらない
その穴はもう
抜けていくほど大きな穴

縦笛社会 古土

今回の記事では『我が子』なる概念を詩にさせていただきつつ考え始めておりました。抽象的表現では御座いますが親が笛を吹いた時よく音が鳴る子を他の子より頻度高く抑えては同じ音ばかり鳴らすんだなぁと、慣らされてる僕は思っていた事がありました。兄弟の確執なんかも親の価値観が根を張っているケースもあるのでしょうね。その指の抑えが外れた時の風音というものは人によってはカラカラとして寒くて痛いでしょうか と。

同義ですけど用いるには、または用いられるには、子ではなく楽器として置いて眺めてみる時間も私にとっては有用で悲観だけでなく対策と実践も備えたくて笛と指とさせていただきました。 🐸♪

神様が創られた我が子

そこでですが

私の子供とはまさに自分中心のエゴイズムの穴がその指腹に隠されている場合もありエゴイズム思想と原罪とは深く結び付いて奏でてはその思考の軌道を慣れた自分の指先が反射的に覚えてしまっているのですから自分自身で切れるならそれはおそらく御相手が穴を小さくするか、もしくはズラしてくれているのだと自分の価値観を振り返ります。価値観で幾ばくかも進まない時、何をどう思う認知の自由と共に対人関係の扱いでは聖霊の介入による自覚が両者にとって本当に優しいのです。

古い記憶をたどりますと親が子供に○○さんと敬称を付けて呼ばれておりました。三浦綾子さん原作の『塩狩り峠』に出てくるお母さん役の方です。それは、たとえ生み育ての親でも子供は授かりもの預かりものという感性からきていた事と男女の性は神様の業を2人で成すという喜びが付随されているからと推察されますので私の子供とは無縁教育、進化論教育の弊害でおそらく間違いないです。こちらはあくまで自分の場合ですけど、尊重の前に生活苦や忙殺で一杯、一杯、それも解ります。考察している私自体が同じで弁明の余地がないので私には救いが必要なのです。自分がしでかした事は自分で救えません。

とはいえ親が子を『敬称で尋ね合う』なら無用な暴力の影の幾つかは消えます。せめて心持ちだけでも自分の子や自分が育てたという一面だけでなければ緩和します。こちらは子育ての実体験で感じている最中でもありまして私の子供時代にふりかえりましても善と保険を『霊敵』にすり替えられた生業でしたのでなおさら子供は親の保険ではなくお互い神の尊い作品であるなら平安であると確信致します。人から見た神の子供(神童)の方ではなくて、神から見た神の子供でございますね。

預言と占いの見分け方

都度、霊敵(悪霊等)を意識しつつも最近は特にどれだけ敵が居られるのですか?という問い掛けにありましてはこれからもっと顕著になっていくのだろうと感じます。数は同じで顕著の方であります。それだけ時代が激しく終わりの時に添って行ってるんですね。有名なエゼキエル戦争の預言も全世界同時視聴なんて旧約聖書のエゼキエルさんも神様に告げられなければ2600年も前に先ず認知出来ません。エゼキエルさんはその当時全世界自体を知らないからですし視聴手段など機械文明ではないので尚更知れないからです。

わたしは、わたしが大いなる者であること、わたしが聖であることを示し、多くの国々の見ている前でわたしを知らせる。その時彼らは、わたしが主であることを知る。(エゼキエル書38:23)

聖書

ですからその当時に認知出来ない時代の預言が預言で認知出来る時代の預言は占いという見分け方も御座います。実在している物を用いてこうなる、ああなるは被造物によるもので(この場合の被造物は人間だけじゃないですが)創造主によるものでないという考察で御座います。本物の預言。創造主によるものは実在認知前ですから認知出来ない人間に告げる必要があるからです。こちらは(占いどうこうでなく本質の分析となります。)どうこういいますとまた価値観論や感情論になってしまうのであえてわざわざ『耳のあるものはききなさい』という聖書のことばは事実ですから『耳のないもの』も居て当たり前ですから事実に負の感情が働くならそれは良心でなく私に内在している罪の働きとなります。そうしますとノストラダムスの預言は占いですね。神の預言を惑わす為に後からそのように人間に認知させています。ノストラダムス占い

認知後の感性を用いると

占いではないのですが、私は被造物ですので認知後の感覚を用いますと、たとえば昭和の商店街で肉屋の店主の方が肉屋も八百屋も果物屋も自分でやろうと思えばやれるのですけど肉屋しか営まない方が多かった世界は今の世界より優しく感じました。八百屋も果物屋の店主の方もおなじ角度とベクトルを持っていてもいなくても。商店街の平和はその外にあったからです。そこには郷愁を交えた感覚が御座います。こちらは個人差はありますでしょうけど罪の意識の低い、もしくは無い子供時代が輝くのと同じ感覚とよく似ています。なのでどうしても過去を用いられたり『口を寄せれられると人は弱まるのですが』

聖書では人が犯した罪を誰も覚えない国が最期に成ると約束してくれていますので霊敵に惑わされずに本年も生かされていることをゆっくりと覚えつつ喜んでいこうとおもいます。(自分が犯した罪も御人が犯した罪も私はどちらも最終的には一片も残っていない、憶えたくない、希望がございます。)

もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る、また、彼らの額には神の御名が記されている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。(ヨハネの黙示録22:3~5)

実在認知出来ないのですがおそらくともしびの灯は郷愁で太陽の光は希望でしょうか。それらがいらないほどの世界になるという事で在りますね♪

聖書

私には未だ実在していない世界が希望でもあるのですが既に存在はしているのです。そういう順番を被造世界は必ず辿って来ているからなので楽しみです。♪♪♪ 存在→実在→認知の中でも『わたしは在る』と存在し続ける方を頼りたいので実はもう自分の実在も認知も御人の実在も認知も殆ど惑わされる事が無い平安を頂いております。存在→実在→認知の考察記事はこちらで確認出来ます。

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。(マタイ6:33~34)

こちらの御言葉は存在の求め方ですね♪

聖書

私でなくキリストに還る平安♪

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28〜30)

聖書

ありがとうございました。🐸