何故イエスが復活したとわかるのか

いつもありがとうございます。今回の記事は『何故イエスが復活したとわかるのか』こちらに焦点を当てて書かせて頂きました。当時生きていたクリスチャンだけでなく復活を見ていない現代の私でもわかる内容となっております。


たとえ鍋底の焦げ跡の様に黒く焼き付いた思いがあったとしても、たとえそれが涙に浸しても浮かばず、または焚き上げて沸かしを繰り返し、それでもなお剥がれないとしましても、焦げ付きの上に聖霊の風が御言葉を運んできてくださって少しずつですが緑の芝生に変えられていきました。

自分の目で焦げ目をこすり浮かばせたとするのなら、または自分の手で焦げ目を焼いて剥がしたとするのなら、どこかに傷が残りますし、比較対象の目に覆いを掛けられることもございましたし、どれだけ細かく磨きましても付いた傷には新たな焦げ目が入り込み、手段の吟味に始終してはとうとう目的が手段に落ちついて同格となる事もございました。

ところで、聖霊の実とはイエスご自身の御性質そのものですから、何と比べてや、過去の自分と比べてなどの 目的に至るまでの動機すら無いのです。聖霊には原罪がありませんから人の価値観による価値尺度を最初から必要とせず、初めから終わりまで何も混じっていません。

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」

ガラテヤ人への手紙5:22~23 聖書
いつも学ばせて頂いております。

愛は愛しかしませんし、喜びは喜びしかしません、平安は平安しかしませんし、寛容も 親切も 善意も 誠実も柔和も 自制も、聖霊はそれだけしかしないのですね。それしかしないので比較対象も時間も必要無く評価が要りません。偉い、偉くない、出来る、出来ないも関係ないのです。

クリスチャンはこの聖霊と共にしているので(クリスチャン=ただでくれると信じたので貰っている人。ただでないと聖霊の対価は誰も払えませんけど)聖霊に似てきますし、聖霊はイエスと同質ですからキリストにも似てきます。

ですので自分には無かった性質だなぁ。。。と(だって自分だけでは何か混じるんだもの)栄光(主に喜びと感謝)を御霊にお返ししています。(忘れる事もありますけど)

なにより生きていながらにして御国を体験させて頂けますので生かされていると感じていますし、聖霊の実をみますとイエスは復活しているとわかります。

ありがとうございました🐸