先ず神の国を求める必要性

今回の記事は私がコツコツと実践させて頂いております聖書の言葉をご紹介させていただこうとおもいます。家庭内伝道にも必要ですから、ほんとうに慎重に少しづつでございます。

先ず初めに神の国と義を求めなさいというイエスの言葉がありましてそれをすれば付随する必要はその後にあたえられるという約束の言葉を体験させて頂いております。(こちらも主の祈り同様に最後の砦でも御座います。)

こちらの言葉は先ず初めに自分の信仰的価値観や隣人の価値観(友人・知人・家族)を求めなさいということではなく神の義は神の国の中で働きますから先ずは神の国を実践する訳でございます。また価値観は神の国の中に在ればいいので価値観の中に価値観を出し入れすることでもありません。

丁度写真の2人がお互いの価値観だとしますと空や雲や道路や標識や文字が神の国の役割となっていまして初めにここからお互いが生きれる様な模索をするのなら神の義は全うされてあなたがたは生かされますという生き方や在り方や用い方の事でございますから自分の価値観やお相手の価値観に捕らわれる事がありません。(価値観に先立って神の国の言葉が聖霊により働いてくれているからでもあります。)

ですから生い立ちも生まれも経験も何もかも同じでなかったとしても神の国は私1人だけでも求められる訳でありますので、たとえば

〇離れた方がいい相手

〇こんな相手には注意

〇頭のいいひとがやっている○○

こちらは人生観に基ずく価値観ですからこの示唆に囚われる事が全くありません。お相手でも自分でも価値観の押しつけがあったとしましても神の国の捉え方の範囲でありましたら、そういう事でさえそんなに大きな問題でもないのであります。

基本的に価値観の中に価値観は入りませんといいますか忘れます。こちらは年齢を重ねれば重ねる程顕著に表れますから、押しつけようとしましても、引きつけようとしましても、入らない事は予め解っていますから、神の国と義を先ずは求めなさいとイエスは教えて下さっていると私は実践させて頂いておりましてその時に聖霊が働いてくださって私の価値観は働いていない事がわかるのでありました。

このように聖書の言葉は信仰によって働きますから信仰によって働いた言葉は価値観ではありませんから自分のものでもないのであります。ちょうど裸で粗末な葉しか無かったアダムとエバに神様が衣を作ったように価値観を覆える衣を作る事とも似ています。ずっと作り続けたいと願っております。

まず神の国と義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます

マタイ6:33

聖書

主に感謝。

後半のこれらのものすべてとはお互いに必要なものでこちらも自分がお互いに必要なものとは限らない自由や驚きも用意されているのでありますから、主に感謝している次第です。

ありがとうございました。🐸