神のくせに一緒に死んでくれた『誹謗中傷』の正体

限られた世界だと10人の殺意は民意になるという事でしょうか

では、ラクダの民意が針の穴を通る事も神なら御出来になる。

神なら肥大化した民意をも救える。

その漂いは胸開きの窓、パンの匂い。マナの匂い。

オリエンタル急行殺人事件

みなさまこにちは。物語りの中にも神の言葉が隠れていないか探している時間が好きです。何時もありがとうございます。

目に見えない神を居ると主張する事も目に見えない神が居ないと主張する事も同じではありませんか?こちらの考察に賛同しておりました。そこで今回はこの賛同から『誹謗中傷』の正体について書かせて頂こうと思いました。結論から書かせて頂きますと誹謗中傷の正体は善悪の判断だけではなく『善悪を自分で決める』呪いが全人類に掛かっているという事実で御座います。

善悪を知る実を食べた呪いは善悪の判断よりも自己判断を優先する事ですので私に教えてくださった知見からで恐縮ですが肯定でも否定でも議題によれば同じ事となります。実際には自己判断や自己崇拝または自己偶像は聖書の言葉に御座います『喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい』に困難を覚えます。(それを求める方に限りですが)ですが逆に『誹謗中傷』はその弱点を知る機会にもなって頂けました。聖書では自己判断を止める手立てとして下記の御言葉もございます。

しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。

私はキリストとともに十字架につけられました。

ガラテヤ人の手紙2:19

聖書

こちらの聖書の御言葉によりますと自己が自我だけで死んだのではなくて、わたしが一人で血が流れる程に罪と戦った後、一人で十字架に罪を張れたのではなくてキリストが一緒に、わたしの罪と共に死んでくださった霊的事実を信じれたら素敵だなぁと確信しているのです。それは若い頃、教えてくださったこちらの森田童子さんの心情にも触れれます。ありがとうございます。

『神のくせに一緒に死んでくれた』と重なります

古い性質の『善悪を自分で決める』その延長線上に『誹謗中傷』がございますので人の心は凹凸の様に抵触部はそれぞれバラバラではございますが、私などもとより人は聖霊によらなければ危険極まりない淵の上でかろうじて転がり進みバランスを維持しているわけでございます。逆に安定しているのならそれは聖霊によるものでございます。

イエスでさえ『正しい方とは誰ですか?正しい方は父以外に居られません』と青年の質問の前に正しさについて教えておられ青年の呪いの目を解かれようとする意図と共に私にも誠の正しさは人が持ってはいけないこと、最初から既に持っていないことを伝えておられるのでした。

こちらを先程の過去でなく未来への時間に置き換えましても今の現状は解っていたとしても、私自身の未来も御人の未来も見えないのに神以外に正しさが解る訳ありません。もし解るとしましたら口寄せ師や魔術師や占い師の方々でしょうか。

そこで自己判断を嫌い御霊と共に歩む最初の模範はイエスですが、人でありましても聖書の物語で有名な箇所がまた裏付けて頂けました。ペンテコステ前のペテロは刃をとって自分が正しいとして右手の主張をしましたが(イエスを捕らえに来た兵を弟子たちが快く思う訳ありませんからこの場合、どうもがいても中傷を生みましたし、誹謗もあったかもしれません。)ペンテコステ後のペテロは殉教に至るまで聖霊の判断に委ねています。(神がペテロと共に働いてくれているからですし、弟子たちやその場にいた聖徒達も同じ賜物を頂いていると判断出来ます。)

この聖書箇所に御座います様に聖霊による人と聖霊によらない人では内面の働きが違いますが信仰には徳 徳には知識 知識には自制 自制には忍耐 忍耐には敬虔 敬虔には兄弟愛 兄弟愛には愛と御霊の働きは各々に在ります通りに働いてくださる同じ御霊ですので『泣く者と共に泣き、喜ぶものと共に喜びなさい』の傍に近づける備えがありますと同じ御霊の働きがあれば信仰者同士であってもなくても、誹謗中傷の誘惑から緩和されるのではないかと考えております。

私は愛と自由のもの

羊は牧者に駆け寄る足。

その足たくましく早い

羊は悪から逃げる足。

その踵に砂は噛めぬ程速い

衣は白く裸を覆い 

触れるとやわらげで温かい

得ーる100% 

得ーる屋

^^) _旦~~ 結論から書きましたので風船が飛んでいくような文章になっておりますけど、お付き合いくださってありがとうございました。