憐れみがもたらすものと

最近の出来事を含めましてはっきりと認められる自分自身以外の痛みが私には3度ありまして一つは病に飲まれそうな兄と家内(ひろちゃんとかお嬢と呼んでます)については2回で足して3回でございます。こちらを表現いたしますと自分自身以外の喜びは泉の様に湧き上がってくる噴水のような心持ちだとしましたら憐れみは泉の水が血の様な様相をとり体全体を少し削りながら跡を付けて流れていく様相を取ります。それは自分の痛みの様に感じまして涙も伴います。自分の身の上に起こった事ではないのですが涙を伴う程に痛い慟哭。これが私には3度あった訳でございます。イエスキリストの祈りの言葉でもありますがこの杯を取り除けてくださいという心持ちの断片程かもしれません。しかし私にはその言葉の真意は届いてきてくださいます。ゲッセマネの園にて大勢の痛みを同時に感じる痛みとはどれ程痛いのでしょう。。。この痛みは御霊の働きでもございますから自分で収束作用させる事は出来ない訳でして、憐れみとは、憐れむとは、このような痛みを伴っていますので決して安全な位置から棒なりロープなりを伸ばしている言葉ではないのですね。その後にイエスはこうおっしゃいました『わたしの願うことではなくあなたのみこころのままをなさってください。』このイエスキリストの模範が私にも息づきを齎してくださいまして選択の自由から委ねる自由へとの変貌を成してくださいます。3つの痛みの経験は総じましても私ではなくイエスキリストの御霊が癒して下さいます様にと今も祈っておりそれが私の愛より神の愛が確かであるという確信にも繋がっている次第です。どうか主の御霊が全ての方の痛みに留まってくださいますように。

^^) _旦~~ そういう訳ですので私は自分の意思で生まれていませんし、自分の意思でこの世界を望んで生まれた訳ではありませんので、私を含めてこの世界をお創りになった方のお手伝いをしている時に私は自分を縛る自分の意思から自由になっているのであります。自分の人生は自分で決めません。そっちを選択していけましたらこれから何があるのだろうと面白そうなのでございます。本日もお疲れさまでございます。今日もありがとうございました!