宗教という牢獄

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時に私はパウロとシラスが投獄されていましたように福音も宗教という名の牢に入れられている感覚を覚えます。一般的には福音も宗教という牢獄越しに見られていますので見られる方々も檻の棒に遮りがありますからはっきりと視る事が出来ない機会をときどき頂く事がございます。この折り檻を明確に記す事は本当に難しくせめて自分に向け記す意義におきまして私は記述する事に随分助けられて参りました。思い付く事と書く事はまるで筆と紙の関係性の様になめらかで有意義な時間に包まれていく感覚を覚えます。また海辺などでそれらが適いましたら潮騒も付箋となりなおよろしいのになどと。。馳せている時は尚更十分でございます♪

それで福音も宗教も言葉ですから言葉には力が宿っている訳ですが、少し力の記述をさせて頂きますと、たとえば発信者は関係ないのですけど『お前の事を誰が好きやねん』または『お前、面白くないねん』このような先の尖っている言葉でも力が宿っている理由はそれが『言葉だから』ですので『力ある言葉を生める力』は神様以外に実在していませんから言葉は最初から人間に備わっていたと考えている理由におきましても言葉も命も強いものが弱いものを生めても弱いものが強いものを生めないという摂理に順じています。こちらが目だとしましても、少しその力は弱まりますが目も十分に言葉を宿しますので時に目から言葉が伝わったり、または表情からもその様な力が伝わって参ります。

では同じ言葉でも神の言葉『わたしの目にはあなたは高価で尊い、私はあなたを愛している』こちらにございますような多くの力ある聖書の言葉の力がかつての私の様に伝わらない機会がある理由には私の中で存在している罪が隔てているからでもあると捉えておりますから何にもまして常、聖霊によってこの言葉の力を感じ取れます様にと祈りつつ暮らさせて頂いている次第でございます。

もどり先程の先の尖った言葉は罪が隔てていましても罪ある言葉ですから罪人である私にはその力はダイレクトに伝わってしまうのですね。そうしますと言葉には自分の力や本質だけで感じとれる言葉の力と自分の力と本質だけでは感じ取れない『助け手が必要』な言葉の力が存在していると捉えることも可能ではないでしょうかと考えます。

今回の文章はその様なところから繋いでおりました。

『力ある言葉福音』を託された牢獄の中のパウロとシラスは真夜中に賛美しておりました。地震がきて牢獄が壊れてもそこから出ずに自分を打った看守の方の命を想って牢獄の方々も皆逃げずに留まっておられたのですね。『こちらも物語性のみならずその性質は神の言葉で出来ております』ですので逃げなかったという言葉が私には力を感じる一説でもあるのでございます。

ならば私も宗教という牢にたとえ入れられていたとしましても夜は静かに賛美しつつ、もしこの牢がいつの日か主にあって壊れましても今まで自分を責めていた看守の方の命には想いを馳せても良いのではないかと記したくなっておりました。

もちろん看守の方を置き去り逃げたとしましてもそれはそれで、その先で主の御働きに預かる機会に恵まれると信じるのなら私は自分の罪への矢印が主を通して神に向かう感覚を覚えて嬉しくなるのであります。

^^) _旦~~ 『試練からの脱出の道の備えも自他双方向で働くのではないかと至らぬ事多い中ではございますが掴もうとしており』罵りの言葉に力が宿るなら、神の言葉にはそれ以上の力があると信じます。それで随分助けられて参りましたので誘惑は去り神様の愛がいつも皆様と共にありますようにと祈ります。いつもありがとうございます。