あなたがあなたでなければならないりゆう

あなたがあなたでなければならないりゆうを書かせて頂こうと思います。

最も人を躓かせて来た人生観や価値観や思想や哲学を総じて概念と言えます理由としましてはこれらは個々の人生遍歴に付随してきました事象判断による集合体でもあるからです。ですので目的は何にせよ日々朝礼暮改等の自己努力も含めまして常に刷新されますしブラッシュアップを計りますと共に既存の状態を維持する箇所も残しつつより合理的にも変容しますしより不合理的にもその形を変えましても一貫してその土台に在りますのは自我であり意思でもあります。

一方自我や意思は概念ではなく単一の実在、または存在でありますので特に原罪が混じるこの部分は概念ではありません。あくまで集合体ではなく生まれた時から自我や意思は個々に存在しておりますから痛みの不等号比較やレッテルはここには通らず、赦しの香りなどの共友なれば共に嗅げる箇所でもあるのでございます。心掛けは創れましても心掛けを創る魂は創れません。

自我や意思の伴う人格はそれ単体で意味を成していましてそれ単体で既に完成している訳でありますからメシアや救世主と同じで集合体概念ではありません。人はメシアや救世主、または創造主と同じ単体の人格を持っていると聖書では証してくれていますが聖書ではなく良心を用いたとしましても概念で人格を量る事は本来は出来ないのです。

ところが・・どっこい!

この世界の神が概念(集合体年数による権威も含めて)こそ人格であるかのようなプロバガンダが完全に進んでいますので単一の人格は神と同じ性質をもつ存在であり概念ではないと言おうものなら。。。宗教(強制)笑。。。wwwという概念が働きます。これが大きな目梁でもあり人が概念でなく人格という真理に覆いを掛けている訳でございます。もう見えないくらいの棘状態でもありますね。

ですからご説明させてください。この世の神(聖書ではこの世の神をサタンといいます。サタン・礼拝を隷属にすり替えてる張本人。本来の礼拝は交わりや交流ですので隷属ではないのですが、神の認知で最も多くの方が持たされている概念でもある私を拝むなら・・・この前提は教祖にひれ伏す白装束の宗教信者の横暴や犯罪のイメージに続きますがドラクエ1の竜王が発祥ではなくてサタンが始祖となります。聖書にはっきり書いていましてイエスご自身もこの誘惑を受けておられます。)また一般的に流通している概念は私の価値観を認めるなら・・・となりますので特別宗教に関与せずとも完全に市民権を得ている状態でもあります。

サタンは自分が概念でない事を知っているので人間に概念を刷り込ませているのですね。(人間が概念であり続けてくれれば賞賛や批判を用いればすぐに隷属させ続けれるからです。時に命でも奪えます)彼らは人間は人格という神の単体作品ではなくて自分で歩んで来た人生観や価値観に基づく概念で出来ているとすり替えて教え続けている訳でもあるのです。

なのでどんな賞賛を受けてもどんな批判や非難を受けて震えましても本来は人格の価値とは関係ありませんから概念だけで自他を精査します現状でありましたらどんな人間でも永続的に渇きます。

また賞賛も批判も世的概念からきている場合が殆どでございますからイエスが私が与える水は乾かないと仰られた理由はイエスは直接人格に水を注ぐ事が出来る方ですのでご自分の血をも注ぐ事もいとわない方であるからです。このイエスこそ人を概念で視ないで人格として完全に視る事が出来た最初の人でもありますからなのです。また水は低い方に流れますので自分を低くする人格はイエスにあって潤い続けます。

人は人しか生めませんのでイエスに似た人がいましたらその人は神によって生まれ変わらされた方であるとも言えますので、わたしはキョロキョロしてる時がございます

またもし人間が概念や価値観や人生観ならそれらを未だ持っていない赤子は人格ではないのですがそんな風には誰も考えませんしそれを概念化しません。なぜなら赤子は概念ではなく人格に成長すると最初から理解しているからです。その後人間がこの世の概念によって概念化していきますのでより合理的であったりより不合理的であったりの支配下に降る訳でありますがこの場合の(サタン)支配者とは支配している事を気付かせませんが逆に自然や動物をみれば明らかで創造主は至る所でご自分の業を公開しています。

ですのでまたサタンが自然や動物や宇宙まで概念を用いてそこに手を加えているのですから進化論しかり概念が自分だと歩んで来た人には信じ易い世界が成り立っているのであります。この点にたとえば権威が人格と相入れず嫌いなら何故権威が嫌いなのでしょう。権威への負の感情は支配による不自由の強制であると想定した場合、既に人類は支配下にあるとは思わせていないにも関わらず人類は永遠に死からの自由や人格の解放を求めています。いや人格が自由ならもう自由を求めなくてもいいはずですし支配されないはずなのですがそうならないのは人類がこの世の神による支配下にあるからで人格は自由であるのに概念が概念への不自由の鎖を打ち続けているからでもあります。(教えて頂きましたパレスチナが70年支援を受けても独立させない弱者ビジネス 難民ビジネスと同じであります。)

また川の氾濫が来ると警告しても従わないのは何故だったのでしょう。人格として捉えないで概念と概念として人の意見を捉えているからです(強弱の差はありましても概念と人格は2種交じりますが1種と捉える不自由が刷り込まれています。私は人格と交じりたいのでどうぞ御人格で聞いて頂けますでしょうかと。伝えれば素直になって頂けるかもしれませんが、素直になる事が大切です!がそのまま伝わる確率は概念の覆いがありますのでほぼ0でございます。)また動画に広告を出している方々等はあまり表に出ず動画広告を稼ぐ方々に注目が寄っている現状等から判断可能な事実などもこの2通りの見え方にも似ています。

そこでメシアは人格であり概念ではありませんから人格である人間を救う事が出来るのですね。概念が人格を救う事は残念ながら力が及ばな過ぎて救えません。人格は神の作品でありますから人間の創った概念が神の作品を救う事そもそもが無理なのです今日のおかずが一昨日のお腹を満たせません

伝道者の方々やキリスト者が福音を伝えても救うのはメシアという人格(聖霊)なのですから、概念化した教会や教理に惑わされないで欲しいと切に願います。惑わされたとしても戻って欲しく思います。主は多種多様な事物事象を用いますので。

また、霊的戦いにおきましても愛であるイエスが人格であることと同様、サタンも反逆中傷の人格ですから概念では勝てませんしそもそも戦えません。(長い間実践してきて負け続けました結果私には本当に無理でした。その戦いをたとえるなら野菜を物質の集合体概念としますと腐ると崩壊しますが崩壊してもCやMgなどのそれ単体で意味を成すものはどの様な形であっても残りますので勝てないのです)

なのでこの種の戦いや中傷に対しては聖霊と共に歩んでくださいますようにと祈ります。是非イエスキリストを概念ではなくて人格を救える救世主と伝えている方を信じてください。この記事を書くきっかけを頂いた理由は既にもう本当に聖書に予め記載されている通りの惑わされている偽教師が現れてイエスの人格を伝えず概念を伝えているからであります。

私も引き続き多くの友を無くした、いや無くされてきた、いや今も無くされ続けている、自覚をあらたにしまして頂きました武具を着け、または持ち直します。理想は全ての神の武具が同時に動く事でありますのでその姿はさながらグラディエーターをお借りしたいと思っていますが少々誇り過ぎでもあり目標でもございます。

概念は何でも自由でございますがもう一方の人格を大切にしてください。概念による誹謗も中傷もジャッジも通れない場所。すなわち愛、信仰、希望、親切、寛容などのそれ単体で働く神様の武具や賜物。イエスの人格による生業は平安を齎してくださいます。神の作品でありますあなたはあなたのじんかくを聖霊と共に護れますのであなたがあなたでなければならないりゆうだと私は信じます。

^^) _旦~~しめくくりとしまして、信仰の盾もあります。御言葉の剣はあります。エルサレムの回復もありますよ。ないないないじゃないです。妙なダンスを見ましたけど考えすぎぐらいで丁度よい時代でもございます。。。今回もありがとうございました。お疲れ様です。