管理者としての自由

^^) _旦~~ こんにちは。蒸し暑くなってまいりましたので水分補給をまめにさせていただいております。

以前、体調がすぐれずMRIやCT検査を受けたのですが何処にも悪い所は見つかりませんでした。それはいいのですけどその際に訪れました病院の雰囲気が私には港に見えてしまいまして。次の場所へ行く前の港であって悲壮感がありません。

今の命への自他への冒涜ではなく単純にそう感じましたから病気が発見されたとしても怖くはありませんでした。(むしろ、いよいよ行けるのかもとかなんとか。。w)

そこで、なぜ、今の日常生活でもそう感じ続けているのかを聖書の言葉に尋ねていました。

。。。そうしますと(同胞のキリスト者の方からのヒントも頂けまして)

私は、私の魂は 私の心と体と賜物を管理する管理者として創られたという自覚があるからでもありました。わたしは わたしの魂(自由意思)でさえも 自分のものであると主張するものはもう何ももっていないのです。(自分のものだと主張する火種を持っている時もありました)

しかしそれは悟ったとか達観したという霊的な流れが止まっている状態を指しているわけではなく

私は私自身を管理する管理者としての意思を頂いておりまして管理者には頂いた賜物を用いる役割があると続いているのであります。(用いる目的におきましてはキリスト者は御国の為に用います。伝道も御国の到来の為の働きとなります)

また賜物には全てが含まれます。容姿や声や能力もそう(想いを尽くし、心を尽くし、精神を尽くしもそう)全てが含まれています。物理・精神共々。

賜物を用いたとしましても元々賜物は自分のものとしない信仰による霊的働きの内にありますから、手放さなくていいですし、手にしたとしても 自慢や中傷に捕らわれなくてよくなります。そこには管理者としての自由が約束されているのでありました(悪魔が放つ中傷という火矢を防ぐための自由)

線香花火を手にしまして綺麗だね~。としましても、流石に自分が綺麗だとする人は居られません。

雰囲気

こちらの管理者としての知恵を教えてくださいましたのが聖霊であり、イエス・キリストでもある訳でございます。タラントのたとえ話からの学びでございました。(マタイの福音書25:14~30)

たとえ話のようにタラントを自分のものであると思い地中に埋めてしまう事ももちろん自由でございますが、自分のものとせず用いて増やす自由もございます。信じてそのようにしてみようとするとき。増やすといいますか増えるんでしょうね。二匹の魚と五つのパンのように。

( ^^) _旦~~ いつもありがとうございます!感謝!