ポルノの蔓延!オナニーに悩むクリスチャン!(証)
※目的に生きる※
私のこれからに必要と覚えあれこれを書き留めておきたいと思います。すなわち家庭伝道を含めまして人との交わりにおきましても下記に記します項目を覚えポルノの蔓延!オナニーに悩むクリスチャン!というタイトルで証しておきたく存じます。
早速ですが、もし人生の目的が救いなら積極的に関わらない事も有益であり愛の行動でもあり、事物であり人様でありましてもオナニーやポルノ同様離れる事も愛であるという事もあり得る訳でございます。
人様との別れや離れは人特有の意志やベクトルで捉えずに神様がお持ちである遍在性、すなわち存在や場所として大切に扱えば尚、離れる事は自分勝手な言い分ではない事が真実味を帯びて参ります。
同じくして意志やベクトルで隔離が困難なこちらにある事物から離れる方法のご説明
ポルノ蔓延や性欲(オナニー)に悩む方に
お酒に悩む方に
タバコに悩む方に
減量や賭博にも(悩み苦しんでいない方は対象外で価値観は皆自由でありますからここでは止めたいのに止めれない方。罪悪感を感じる方への証となります)因みに全部私はやりました。
私の証
私自身同じもので苦しんで参りましたから、これらから継続し永続的に離れていなければアドバイスもなにも出来ますけど実としては成りはしないことは誰に尋ねることなく明白で御座います。
※私の原罪と現在※
私自身の現在はキリストと共にありましてこれらの誘惑は私にはやってはこれません。衝動が来ないのです。(たとえ信じて頂かなくてもこちらは事実ですのでベクトルでの御信頼ではなく存在からの恵みとなります。)
具体的には聖なる方と共に居る事が聖化であり自分から出た事は自分から出ていない方によって分解されていくからでありまして、先にご説明させて頂きました通り意志ではなく場所に、ベクトルによる向きでなく聖そのものと救いそのものと共にいるからそうなるだけで御座います。
私の意志や方向性への魅力で何度挑んだか解りませんので勘違いして欲しくない事はこれらの誘惑を退ける力は私には無いという事であります。(もしあるとすれば、聖書の言葉には力があると信じた信仰だけでありますが、信仰も求める者に頂ける贈り物でございますので私は誇るものは有しておりませんが同時に自由でもあります。)
また期間で申し上げますとそんなにすぐになったわけではありません。。ですから努力してがんばった技でない事だけはどうかご理解して頂きたいと願っております。それでその期間は20年位かかりましたが今後20年がどう働いて頂けるのかは未だ解りません。ただ神様が知っておられればよいという安堵も同時に御座います。何時か明かされる時が来るかもしれませんし、来ないかもしれません。
※祈りの力は存在します※
これらの誘惑に立ち上がる為に具体的には色々調べてはいました。(実際に扱ってもみましたが自分には無理でした。)ですから実効として私の場合はこちらに御座います主の祈りがメインとなっております。
天にまします我らの父よ。
(マタイ6:9〜13)
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を
今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、
我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなく汝(なんじ)のものなればなり。
アーメン。
※キリストの教えてくださった祈りは実効果が御座います。黒く太く記す個所に全霊を注ぎ頼り委ねましたし今でもそうしております。衝動が来ない理由は主の祈りの試みに合わせずの部分でございますね※
※出来ると成るの相違※
そして今も祈りの内に働いてくださりまた何度失敗してもとりなして下さるキリストに永遠の誉と栄光が留まります様にと祈る事が隣り人を愛する事だと確信しています。目的は交わりを超えて救いであるならなおさらです。隣人が失敗しても、その失敗。。。それが私でありましてもキリストが執り成しておられると感じ切れるからでもあります。
人の愛は神の愛の内に働いて傲慢(サタン)から守られていくのだと信じております。神の愛と人の愛は誘惑と同じくして離れている今でも働いてくださると感じているのでありますが、それは誘惑だけが働いていてそれで正気であり続ける事の方がおかしいと私は考えているからでもあります。なので誘惑が来ない方法も在りましたが私が出来たのではありません。)
※愛のカタチ※
(人の愛はベクトルで神は愛そのもの)優劣ではなくその働き方の事でベクトルがなければどうして場所に辿り着けるのでしょう。だから人の愛の向きで落胆しませんし、なおさら愛や救いそのものをお勧めしたい訳でございます。(私でなくキリスト)こちらはそういった意味が含まれているとご理解いただけますと幸いです。またこれらを手に取り易く具現致しますれば。。。余計な表現でしたら申し訳なく思います。
※人の愛と神の愛を想うに※
潮騒の音を届けるのに潮騒の音真似より潮騒の方が互いに有益でありますしこちらであれば共に成れるのです。しかし潮騒の音真似は出来ますけど潮騒には成れないのですが成る場所への足掛かりには成れるのです。お伝えしたいことはこの様な感覚表現となります。今回の記事は総じましても、もし人への、また事物への執着で苦しい時は離れる事が愛である場合もあるのでないでしょうかと感じている次第でもありました。
クリスチャンの目的は誘惑ではなくてどこまでいこうと現行では救いだからで御座います。私の交わりや持ち得る愛はその為に備えられている贈り物でもあると信じます。どうぞお楽になさってくださいますようにと願います。ご自分の賜物は十分な働きを持っていると信じれます様にとお祈り申し上げます。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、
(マタイ11:28〜30)
わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、
あなたがたもわたしのくびきを負って、
わたしから学びなさい。
そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、
わたしの荷は軽いからです。
ただ西成にお住まいのクリスチャンの方の証(家内の叔父さん)で、わしはむずかしことは解らんけどキリストが好きやねん!これには一も二もなく同感で御座います
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