エホバの証人と私
エホバの証人と私
ニュースで報道されていましたエホバの証人の輸血拒否問題…輸血云々の前にエホバの証人の方が持っている聖書は聖書ではなくて改竄されており、聖書そのものではありません。聖書の書き写しにはそれこそ人の一生が掛かっていまして文字数から一言一句まで複写する為だけに人生を捧げた方もいるとお聞きしました。
(そりゃそうですよね。文明の力量を考えましても。。。私も最近松本牧師さんの動画で教えて頂きました知識であります。ありがとうございます。)
なのでまず最初から神様の意図する聖書の在り方を無視して出来ていますから哀しいのです。。。
私は昔、母に連れられてエホバの証人のご夫妻が暮らすお宅にお邪魔した事があります。奥様は片腕が不自由で旦那様はホトホト世事に疲れている御様子だった生業を子供心に覚えていまして,当時私は子供なのに大人同等にお茶を出してくださったこともあり、また家電製品も最小限にして娯楽もなくただただ清貧を貫かれている姿は強烈に印象付けられております。
(生業のご様子は憶測で恐縮なのですが嫌な事もドンドン入ってきますがそれ以上に抜けていく開口部を多く取っている印象でございました。)
なので聖書で明記されている144000人の解釈を曲げてその中に入りたい。この世での生活はもうどうでもよくどうしても行いによってそこに入りたい。それだけが今生きている目的だったとしてもご夫妻が背負って来た物もの「身内殺しの後にやってくる身内殺し」がいか程の試練だったのかは想像に難くありませんから一口で異端で終わらせる訳にはならないのです。
(願わくば私の主語が神様であり愛であり続ける限りはそうなるだけですので他の方の意図や切り口とは混ぜれません。)ご夫妻とは門真市の市営団地の中で夕陽を背景にお茶を頂いたんですがニコニコして僕を見つめてくださっていた笑顔は消えません。
こうしていますといつも自分の還る所はイエス・キリストでしてキリストはこのような言葉をかつて意地悪な学者に伝えました「カエサルのものはカエサルに神のものは神にかえしなさい」と。カエサルとは世の事でもあり、神のものとは信仰や愛でありますが人は時々世の事も神のものも全部握り占めて返せなくなっているときに不自由を感じるのではいかなと思っています。
奪う方にも盗む方にも足らなくて奪ったとしても足りる為に盗んだとしてもそれで足りる事はないのだと感じています。改竄も強盗も盗って足りる事はないのでしょうね。盗りますと・・・。
(とった先が足らなくなりますし、主語が私や行動ではずっと私でなければなりませんし、さらにずっと前の私より今の私を追い続けなければなりませんし、行動が主語ならずっと行動し続けなければならないのではないでしょうか)
私は聖句通り、聖書通り、返さないと足りる事が難しいと考えていまして。ここで書いていなくても伝えなくても神様は何でも出来る方ですから神様に導かれましたら素敵だなぁと思っています。40年も前とは違って今はとても情報選択肢の広い時代でありますのでキリストに還れる方も増える事も嬉しいのですがその反面僕の中では昔の影が伸びて行くのを覚えます。
そこで聖句に御座います通りエホバの証人という概念も誰も奪う事はしませんから一度神様にお返ししては如何でしょうか。神の一人子だけがこの影を消してくださると信じるからであり僕も宗派はお返ししたく今は全てを捨ててこられたキリストに倣うクリスチャンとして生きております。返せるものは返そうとしています。(罪が内面に混在していますので聖霊の助け手がありませんと難しいんですけどね💦)
ただ主語がキリストで生きている方の雰囲気を僕は知っていまして、自分もそんな内面の充実と開放を口からボロボロ零しつつも頂いている末座の子でもあります。
世の物を必死で世に返す方を憶え嬉しく
神の物を必死で神に返す方を憶え嬉しく
何時もありがとうございます。<(_ _)>
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