旧約聖書に書かれています神様の残虐性につきまして

今回は旧約聖書に書かれています『神様の残虐性につきまして』考えてみたいと思います。

あえて、残虐性と書かせて頂きましたその理由はどうしても、それこそどうしても、お一人、お一人が歩んで来られた人生観で神を知ろうとする心情を理解できるからでありまして、かつて私も自分の人生観で神を知ろうとした人間の一人でもあるからです。

当然ですが私は神様ではありませんし、私はみなさまでもありませんから神様の事も他の方々の事も神様や他の方々程に知る事はできないのであります。どうかこの事実はご理解頂けましたうえで書かせてください。

旧約聖書の神様が何故、人を打つ(殺める)かに付きましては、先ず現代の事実に目を止めていただけますと堰止まっていた流れが溢れずに流れていかれるのではないかと想っております。

ウクライナやイスラエルで今、政治思想や個人思想を強要され、愛の大前提となる自由意志を奪われ続けている現実がございます。

その矛先は柔らかな居場所を徹底的に食い破り

女性は女子やご老輩に至るまで
心は粉々になるまで踏みつけられ
体は骨が裂けるまで凌辱され続け
ご遺体はまるで食べ終わった後のビニール袋の様に捨てられております

知って見て頂きたい事実はこの様な全体思想、独裁思想が現代だけあるのではなく人間の中にある悪の本質は旧約聖書の時代にも存在していた訳であり、今に始まった事ではありませんし、また現代日本人お一人お一人の人生観の中にも体験した事が無い方が多いのでありますね。

ですからこのような行いを『打たれる神』の存在がいなければ

女性は女子やご老輩に至るまで
心は粉々になるまで踏みつけられ
体は骨が裂けるまで凌辱され続け
ご遺体はまるで食べ終わった後のビニール袋の様に捨てられた

これを目の前で見ていた肉親や友や人々の心情はどこに流れていけばいいのでしょう。

やり場のない絶望はどこに置いておけるのでしょうか。

果たしてこの様な鬼畜にも失礼な悪性をものごと打たれない神がどうして神なのでしょうか?

悪に走る人間を打たれない神が神なら私はそれこそ最初から居ないとし、信用しません。

ですので旧約聖書の神様が残虐非道であるという訴えや自分を上げる人生観はやがて価値観や固定観念となり何が善で何が悪なのかの判断に陰りが出て最後には自分が正しいという選択肢しか残らなくなってしまいます。

こちらが初めから人殺し(悪魔)の悪の目的で在りまして、サタンは神を人に訴えて、人を神に訴え続けているのでありますね:今現在進行中の事実としまして。

あくまで、みなみなさまがお持ちの人生観や価値観を否定したり示唆する意図はありませんのでこの様な事実に基づく捉え方や視方もあるのだなぁと、ご参考の一辺にして頂けますと幸いです。

『我らを誘惑に合わせず悪より救い出したまえ』 主の祈り 

聖書

^^) _旦~~ 待ち遠しいですね。主よ来てください。そして願わくば私を万軍の主の末座に加えてください!