善を共に全うする『今しか出来ない訓練』

今しか出来ない訓練

『何時までも残るものは信仰と希望と愛』と信じる者にとって肉と原罪を纏ったままキリストに近づく訓練に預かる事はやがて我々が行く事になります千年王国や新天新地ではもう出来ませんので『今しか出来ない訓練』と触れ

『敬虔なクリスチャンでないので私は携挙されない』と思っていると姉妹から聞かせて頂きましたので、私なりの見解をお伝えさせてください。こちらは姉妹と私にあります信仰者同士の記事となりますので予め馴染みなくあらばご容赦くださいませ。

それで偶に聞く敬虔という形容詞ですけどその形容が付く順番によって解釈が変わってくるのではないかと思われます。『敬虔なクリスチャン』・『クリスチャンの敬虔』こちらの2つの用い方でございますね。

この二つなら前者は『暮らし向きの自慢』など躓きにもなり得ますが後者なら成長の結実とも捉えられますので2通り触れていた結果、私はクリスチャンの敬虔の方を選択しようとしております。

また、携挙は神の救いの計画の一つでありますから敬虔は携挙の原因ではなく結実のほうとなりますので携挙の後に敬虔が共にするかもしれません。しかしながら敬虔はクリスチャンに興味が沸く一つの入り口に成り得る事もございますので『全ては益』として働いてくださっていると信じます。

聖書を開きますとキリストの十字架上で死を共にした囚人の方の様にそれまで敬虔を接頭語にした歩みではありませんでしたがその方は最期にキリストを視ている敬虔が伴っておりました。敬虔は視続ける信仰生活上のそれぞれにありまして、驕らないで良い程度で共にしてくださいますので敬虔の前にクリスチャンという贈り物を姉妹と共に『求め続け』ていけましたら素敵だなと想っております。

むしろ私は『胸を打ち』敬虔でないと主を仰ぎ視る方が携挙されましたら『驚くほどの恵み』がその方もその方の廻りにも『湧き上がる』ので敬虔はその時全体にも広がっていくのではないかと考え馳せております。各々の心内の外を細かく反射しながら照らして注ぐクリスマスの様でもございます♪

善を共に全うする

クリスマスといいますと『贈り主と贈り物』2つの方向性がございます。『善悪を全うする』も今しか出来ませんし、似ていますのでこちらにつきましても共に書かせ頂けたらと思いました。

自然や愛らしい動物がずっと証している通り我々キリスト者は美しさも愛らしさも創れませんので善は創造主から出ています。逆に悪は被造物から創造主への『ねたみ』で生み出されました。『今もなお至る所に創造主でなく被造物である私を拝むならの接頭語が働いています』『むろん我々の原罪にもその様な誘惑を受け続ける事も事実』ですのでどの様な創造でも創造へのねたみはあってあたりまえとなります。

そこで姉妹も私も敬虔だとお感じになる時もあります『善を全うする』場合には全うする方向性が人なのか作業なのか作品なのか分かれますけど、いずれにせよ悪は関係ありません。全うする方向性の先に悪意や荒い仕事や粗末がありましても善を全うする際にそれらは関係ありません。善を全うする自分を見ておらず善を全うする『だけ』を見ているからです。十字架上の囚人の方が『キリストを仰ぐ』のと同じ視点の方向性と同じでございますね。

真逆の悪を全うする場合は全うする方向性が人なのか作業なのか作品なのか分かれますけどいずれにせよ善は関係ありません。全うする方向性の先に善意や丁寧な仕事や艶やかさがありましても悪を全うする際にそれらは関係ありません。悪を全うする自分を見ておらず悪を全うする『だけ』を見ているからです。十字架上でキリストを罵った方の囚人の方と同じ視点の方向性でもございます。

いずれにせよ『全う』する際には『自分は視ていない』のでその場合、聖霊の内在か悪魔付きかに分かれ、黙示録にて犬ども・魔術を行う者と表現される方々は悪魔付きの方ですから揶揄表現と捉えてしまうお気持ちもございますが委ねる内在につきましてそれ程までに警戒を怠ってはいけない相手だという事も私は考慮しております。

ですので善を全うする時には先に沸いてくる私達を殺そうとする感情も関係がない理由には私達が扱える領域と神の扱える領域は違うからでして善は悪が無くても善を全う致しますし悪は善があって後から生まれた二次創造ですから本質的に『善と悪はイコールでも表裏でもない』からです。

良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。
良い木が悪い実を結ぶことはできず、
また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。
(マタイの福音書7:17~18)

新約聖書

ですから、どの様な方でも出会いに恵まれましたら善を全うする自分を見ず善を全うする歩みを共にしたいと祈ります理由は『善を全うする自分を見た時に悪とイコールとなり表裏となる』からです

『御心の天になる如く地にもなさせたまえ』

主の祈り 聖書

(こちらは個人的に経験しました姉妹も御存じの私にありました移植手術での最終的な答えです。自分でもお相手でもなくキリストを視上げる時に私が頂いた善は完成致します)

聖書の実例としましてヨハネが『間違って礼拝した天使』を怖く感じるのは天使は善を全うされていて自分を見ていないからと考察するに及び、こちらは聖霊の内在された兄弟姉妹の方々に私が昔に教会で初めて感じた感覚と同じだと考えています。共にさせて頂いておりました食堂で不思議な方だなぁと。。毎週感じておりました想い出が甦ります。(実際に未だ天使にお会いしたことはありませんけど)

このように『完全で在りなさい』こちらの勧めに従おうとするときに私でなく聖霊が働いてくださる機会を頂けますので私にとっては何度も噛みしめております贈り物でもございます。それでお話は最初に戻りますけどクリスチャンの敬虔も姉妹と共に携えつつ共に歩ませて頂けたら願っております。♪

『無人島のディーバ』

最近見させて頂きましたドラマで青い年月の男女でありながら『暴力』に『善』を全うしている表現に感動を覚えました。こちらの二人は2人ともDVを受けている背景がありますがこのシーンは美しいです。若い頃の『姉妹』を想い出させてくれました。曲調の背景は闇夜から夜明け頃の様に感じさせて頂きました。『もはや私が生きているのではなくキリストが私の内に生きているのです』聖書から私が頂きましたこちらの感覚にも添ってくださいましたので素敵です♪

わたしから姉妹への今回の締めくくりとしましてこちらをお贈りさせてください。

夜星に連なる
我らの信仰
照り及ばねど
瞬きて在り

ありがとうございました。

主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。

ピりピ人への手紙4:23