人を自分よりすぐれた者と思いなさい。どうすれば?

風を乗りこなしやって来るクリスマス賛美

癒されるシーンと復活のシーンに胸が詰まります

ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから、赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。そして彼女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。 

イエスは彼女に言われた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

ルカの福音書7:47~50

人を自分よりすぐれた者と思いなさい。どうすれば?

何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。

ピりピ人への手紙2:3

上記機関

こちらの視方を考えておりましたのでそれを今回は書かせて頂こうとおもいました。キリスト者でない方がキリスト者を非難するという動画も出て来ておりますがどうぞキリスト者でない方にも御霊の訪れがありますように。

またその方だけでなく特に私の場合は年功序列の世界観の中でおりましたのでこちらを和らげる必要もあるからでございます。礼と霊を合わせて向かい合わないといけない局面でございます。私ではなく主の愛で愛させて頂きたいのです。

そこで聖書の驚くべき所は何年お付き合いしておりましても各年代,各年齢に応じましてそれぞれに訓練の内容が変わっていくことでもあります。決して至ったと思わない様にとピりピ人への手紙3:13にも予め記載されていますこれは霊的にも至ったと思う心は信仰から出ていないからなのだと考えられます

兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。
ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、

今回書かせて頂きました文面としましては思いついた所に停車した、旅の走り書きの様で電車から見える景色さながらに書き連ねておりますので纏まりはありませんが書いている私は喜んでおりました♪駅弁も大好物でございました♪


一両目

「民族は民族に国は国に敵対する 聖書」世界大戦の後、安堵の気持ちは理解できるのですけど勝利したからといって笑顔になる程度を眺めていました。パレードは変だなぁと。。あ、でも。。。時間が違いますもんねと角度を変えたり など先より後からは幾らでもの事は多いので先に祈ります。

二両目

祈りつつ浮かべようとしている事で御座いました。私の内面は神の宮という事ですから
その宮を色々な汚れがやってきては落書きしたり商いをしたり、悪口 交渉を伝えられたりする事もございまして、それは消えていたり消されていたり、または消えていたのに浮かんできたりと様々で私一人で綺麗にするには余りにも多く重いときそんな時に聖霊が働いてくださり汚れた宮を一緒に綺麗に掃除してくださっております。

いやはや、とても小さくてボロイ上に育っていない宮かもしれません。雨はすぐ漏れますし、風で屋根も飛んだりします。またすぐ汚れますけどかえってそれがまるで御霊が一緒に掃除する事が目的であるかの様な未完具合。。。とにかくそれでも宮は宮なんです。これだけは完全な理由は私が決めたことでなく聖書の神様が決めている事だからです。

あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられる事を知らないのですか

コリント人への第一の手紙 3章16節

三両目

ですから聖遺物や人の手による作品はその後でよくまたはわるくも一次一緒と申しますか二次二章と申しますか順番はやっぱり御座いまして裸には先ず下着、それから上着となりますのでずっと肌によりそう下着の事を神の宮で考えているのです。

下着無き時ののゴワゴワの違和感は御霊なき信仰に似ているじゃありませんか。なので宮にあります御霊が嫌うものをイエス・キリストがなされたようにこう、ぐあぁーっと一気に掃除される時もございますし、暑くなり上着が無くなる事もありましたし、これからもあるでしょう。猛暑と下着と汗は御霊の風が一番近くなりますのなら、たとえ時間掛かりでも完全に綺麗には出来なくても綺麗にしようと聖霊と共に涙ながらに、いや、または、粛々と掃除をした事実が清掃には残ります。。。信仰の働き

四両目

そこで一度清掃の手を置きまして上着に刺しゅうされているような結果や勝敗へ向けます。
冒頭の様に宮の話ではなくて世的な話を宮に納める必要もございますので負けるにしても全力で負けたかどうかが勝たれた相手に一番失礼がない心情であるとするならお相手への愛と敬意故に私は全力で頑張らなければなりません。(信仰義認ではない方のがんばりでございますね)ですから、頑張りによる体が2つあり最早勝敗が片方だけでは私を縛る事は不可能な訳でございます。

五両目

さて、(信仰義認)によりますと、死後の救いも膨大な時間の間にその人と神との間に私が介入するなら神と御人への冒涜にも成り得ます。(セカンドチャンスの前に神がその御人にどれだけ膨大な時間を用いていたのかをです)信仰より血縁が勝ってはどうして死に勝てるのでしょう。こちらも人はどうでもいいという離れ方と人はどうでも良くないほど離れた方がいいとの2つで御座います。

勝敗によりましても私を拾うのは勝者でも敗者でも私でもなく神です。そうであるなら汚れからの勝敗は関わりがなく離れれます理由は神は汚れからは離れているからです。しかし神は人からは離れません。神はダブルスタンダードではないお方ですから汚れていて神はどこだ?と言われましてもどこなんだろう?としかお答えのしようがないのです。こちらは私にも毎日適用させて頂いております。

六両目

その残り香がキリスト者の香りでもあり赦しへとたなびいて行く香ばしい香り。香りですから伸ばせど掴んではいけませんし掴めませんけど、それ故に的を得る様に纏えもしましょう。そのように私の宮を神に向け私の宮を人に掴んで頂こうとしますとああ綺麗になったと別の悪霊がまた来るものでございますから宮の住人は聖霊だけではないと教えてくださいました。

ですから聖霊を冒涜するものは赦されないとは聖霊を否定してしまうと自力しか残らなくなりキリストは人で神の霊ではないと認めれない事と同じでして聖霊不在故のお気持ちはわかりますから聖霊により赦しの双方向を感じる事が出来ますので聖霊が働いてくださらなければそもそも赦されている事が解りません。

もし許しが一方向なのでしたら赦しは双方向ですので神が赦さないのではなく赦されている事が解らないので赦される事を感じる事が自他に無いという事を赦されない罪だとキリストは表現されているのだとおもいます。

こちらに似た感じでは
あ、一端お茶とお弁当を( ^^) _旦~~

七両目

こちらに似た感じではもし、水に力がある、石に力がある、森に力がある、場所に力がある
もし、そうでしたらそれらすべてを存在させた方がその力の源であると私は考えておりそうでなければ纏まることはなく

この様な一歩目ですので神は最早全てを赦していますので人はその聖霊無しに全ては赦せませんから必要に応じた苦心であればいいなぁと自らを整えますと聖書の神様は支配環境で染みついた上下関係ではなく『尊い』と交わし合える双方向の交わりだと整います。

その様な交わりがあまりにもこの世にはないので解らないもあって当然で

だとしましたら御人に受け入れられる為の信仰がどれ程ズレているのでしょう1~99%も99~1%も全く同じではないですかと置きます。数字が救うのではないからでもあります。

現実にここはもう日本教なのです。あらゆる宗教を受け入れているのではなくて、私がかつてそうであったように受け入れている日本人という美徳を偶像化して信じているという事ですから、極度的にその美徳が崩れますと余りにも大きな自死の原因の一つの様な脆弱さが漂うと共に日本教はあらゆる宗教を見下してしまうことも御座いますが、それは霊的新生に繋がっていかないとしましても見下して生を維持する全体像でしたら、見下されがそこまで大きな忍耐を伴わないと思われます。(カルト事件もありましたので しょうがないですけど)

ですから、歴史的な土壌は伝道といいますか改宗なので混ぜた捉え方が大変なのでありましょう。黄色と黒の看板伝道も伝道というより改宗なのでごわつく着心地となりますから解った上で拝見させて頂いております。

冒頭のキリスト者でない方がキリスト者を非難するという動画と同じく伝道ではなくて改宗の方となりますから都度最後に感想をお尋ねしているのです。こちらは一重に創造主よりも日本人としての美徳が勝っているからですね。(そのような分析でございます)

改宗(これは個人的な神と御人との領域)ではなく 伝道(道を伝える)に重きを置くクリスチャンは踵の砂を払えばいいと聖書に書いています。また鳥がもっていく種と教えて下さる以上持っていかれた種ではなく撒いた種が最も大切だと存じます。聖霊充満は伝道の時に最も満ち個人的な喜びもありますががキリストにあります鳩と共に天を見上げて各々で働いておられる兄弟姉妹の足が改宗によりなえていましたら主の御霊がその羽で立たせてくださいますように引き続きまして父へと続く主の道を御霊により私も立てて頂けますように教えてください。

食堂車

また礼拝も隷属ではないですし、属していて神の家に入る事は土足で人の家にあがらない事と同じでございますが家にあがりましたらその家の奴隷ではなく家族や友である事は明白です。強盗でない限り明白であります。ここで恵み深き糧の粒を頬に付けていました。それは十分にいただけるのでした。

宮に居りますとエデンに居るような心持ちもありまして何にも支配されない方こそ支配欲の無い方支配する必要のない方で実際に支配されない方故にサタンが今はここを支配しています。当時のドイツも今の中東と変わらずゲルマン以外を根絶やしにする思想などおおよそ人が考え付くことではありません。

しかし一遍当のサタンではなく神の御計画ではこれらが一変致します。その時その事に備えたくを研ぎ灯し支配欲の無い方が支配される世の中とは。。。一体!?その先駆けとしての神の宮での暮らしなのですからその確信とともにはなはだ楽しみで仕方御座いません。それで人は罪故に自分が支配出来る美徳などを神としがちになるので何からの支配を受けない聖霊が与えられます様にとお伝えしているのは

八両目

せめて

自分を支配する自分を含め何からの支配を受けなければ何も支配しなくなるからであります。生きる生かされる目的は人それぞれですけどそれを伝える足は人心掌握でも罪でもありません。価値観は表裏で働き信仰は道で働きますので感情の起伏を覚え進めないという時こそは聖書にありますとおり信仰から出ていないものは全て罪です。こちらは本当にそうなのだと思うからであります。

進ませずに留め置こうとする霊的戦いを相手が止める事はありません。すなわち悪霊とか悪魔とか愛を否定する全ての存在。たとえ我々が止めたいと願っても彼らは止めませんから
今は戦争は無くなりませんし争いも無くなりません。これが事実です。しかし、誰も神の宮を汚しても壊す事が出来ないのは宮は神の物だからでこちらは最も強い事実でございます。

九両目

そういうことですので宮の掃除とか修理とか増築とか改築もたのしく♪なにより御人と聖霊の働きを同時に見れる宮は頭だったり足であったりどんな宮でも自分より優れていると見る目に恵まれ魂が休みます。聖霊が介入されているのですから

私にとって一番尊重が効き自制が効き楽しみが活き時に( ^^) _旦~~を頂いており。。。♪また、自力では困難な宮の巣はキリストが蹴散らかしてくださってどんな宮も天に挙げられる約束が御座います。

人を自分よりすぐれた者と思いなさい。どうすれば?

聖霊がその人と共に働いておられる場所だからです。または聖霊がその人と働こうとしている場所だからです。その場所は汚れていても壊れはしない神の宮だからで御座います。

終点で御座います♪ご乗車くださいまして誠にありがとうございました。お忘れもの無きようお気を付けくださいませ。