天国と地獄が見えない理由

自転と公転は価値観と世界観と類似してましておもしろいです。全ての事象事物は神の作品であるとする世界観は落書きも破壊も控えようと働きますのでキリスト者は優しい世界の住人でございます。(キリスト者が優しいかどうかは個々に御座います価値観となるようです)

僕は時間も空間も創れませんので、時間も空間も創られた方からの贈りものと信じています。そうしますと時間も空間も創られた方は時間と空間の束縛を受けません。束縛を受けないその場所に人類はイエスキリストを通じて招かれているのです。イエスを贈らなければ人は信じれないからです。

何故イエスを贈らなければ信じれないのかといいますと。。。自分で善悪を決める実を食べて自分が神の様に振る舞う様になったからです。なので神様の方から、いやいやいや、君が神じゃなくて私が神ですと。伝えなければ解らなくなってしまったからです。

神は永遠の命に至る実と善悪を知る実を取れる選択肢を創りました。それは愛の関係は選択肢と選択がなければ成り立たないからであり、また善悪を知る実を取って食べた場合には命とは逆の死が蔓延すると神様は見えていたのです(神様は時間と空間に縛られないので見えます)なので死ぬと言われましたが死を望んでいたのではありません。

また現代でも霊的死から肉体の死を選ぶ方が大勢居られます。そこで神なら全ての人を救えというご意見も散見いたしますが全てを救うならそれは選択肢ではなく、愛ではなく、強制となるのですね。強制は救いとはなりません。

同じように地獄は見えませんし、天国も見えません。もし今見えたのなら選択ではなくどちらに行くにしましても強制になるからでございます。聖書の神様はこのように完全に愛で完全に義である働きを全うされておられますので僕はこの方についていってます。

^^) _旦~~ 全ての事象事物は神の作品であるとする世界観は少しづつですが自分が神の様に振る舞って裁かなくて良い様に変えられていきますので神様の平安を頂けます。『全て疲れた人、重荷を負っている人は私の所にきなさい私があなたがたを休ませてあげよう』とイエスが言われた言葉通りになります。