愛のカタチ
新しき
ブドウ酒に要る
皮袋
飲めば破れて
入れば保たる
『恐れ』が人の心をその人から締め出します。
何時から人の心に元々無かった『恐れ』が働き向く様になったのでしょう。
この問いは旧約聖書の創世記に記載されていました。
彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」主は言われた。「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じたきから食べたのか。」
創世記3:10ー11 聖書
恐れという感情は元々もっていなかったので
違和感を感じるのだと思います。
私にありましては
恐れは何を飲んでも止まずに
否定せず迎えますと凪へと働きますといいますのは
飲むは在る方への自分からだけの方向性となっており
(主に、目と口と舌を用い)
入れるは在る方から私への方向性となっておりました。
(主に目だけを用い)
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
イザヤ書41:10 聖書
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強くし、あなたを助け、
わたしの義の右の手で、あなたを守る
ふと、想像しますと
縁側の日向は目も体も知っていますと同時に
目と体は縁側の日向に知られているという感覚の
二つ折りでしたり
また、わたしが愛で事物その折り目を愛するとしますと
その私の『霊的な形』は小犬でも猫でも草花でも不十分な事はありません。
そのとき、イエスは彼女に答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」
マタイの福音書15:27-28
しかし、彼女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」
私は愛を求め続けているものの
『愛のカタチ』は方策の一部でありますから
どの様な手段に留まりましたとしましても
主に感謝申し上げております。
<(_ _)>
むしろ神が愛する人類を愛する故に
あらゆる『愛のカタチ』を息吹として昼夜奏でておられるのなら
私の人間としての『愛の誇り』はその風で晒され続ける
錆び憑きの重荷である時もあるのでございました。
(私の元にきなさいと言われる主に休ませて頂いております。)
( ^^) _旦~~ そのような訳で春も近く御座いますから!
最後にペリーヌ物語をご紹介させてください!
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